平和について イソクラテス 長坂公一 訳 | mitosyaのブログ

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世界文学大系

ギリシャ思想家集

イソクラテス 長坂公一 訳

平和について

一九
さてそこでもしわれわれが、わが国にいわば恙なく暮らし、生活の糧に益々ゆとりを得、めいめいお互いの問題においても意見が揃い、そしてギリシャ諸国間においても好評を博するということになれば、そうしたことは、はたしてわれわれを満足させうるか。というのは、わたし一個としてはもちろん、それらの条件が揃えば、わが国は完全な意味において繁栄隆盛すると信じるわけです。
ところがいま戦争が、いま教えられた条件の全部をわれわれから奪い去っているのであります。なぜなら戦争は、われわれをいっそう貧乏たらしくならせてしまった。数々の危機に耐え忍ぶことを強制した。ギリシャ世界に対し顔出しもならないようにしてしまった。またありとあらゆる辛酸苦渋を、われわれに舐めさせて来ています。
二〇
しかしもしわれわれが平和を取り決め、そしてわれわれ自ら、あの汎ギリシャ的諸条約の宣明に忠実な平和国家たるの実を発揮するならば、その暁にはわれわれは、戦争その他の種々の危機や現在われわれが互いに陥っている混迷状態から免れ、存分に無事息災にわが国に暮らせることになるであろう。同時にまた戦時資産税、軍艦管理、その他戦争に関するさまざまの賦役からも放免され、他方では、まさにおめず臆せず農業に従事し、海を渡り、その他いまは戦争のために途絶えているさまざまな事業に鋭意いそしみながら、日一日より裕福な状態へ、われわれの暮らしは向上するでありましょう。
二一
またわれわれは、わが国がいまよりは二倍も多くの歳入を得ることになったり、貿易商人や外国人やいまは払底している在留外人などが、あふれるばかり集まってくるのを見ることであろう。また、これはなによりもいちばん大切なことでありますが、われわれは、全世界を同盟者に持つことになる。むろん押しつけられた同盟者としてではなく、心から信頼した同盟者として、つまり、われわれが無事である間は、権勢あるわれわれを歓迎するけれども、われわれが危殆に瀕すれば離れてゆく、というのではなく、むしろ真実の意味での同盟者たり友人たる者の当然とってしかるべき態度を、常に示してくれる同盟者としてであります。

イソクラテス(Isocrates)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イソクラテス(イソクラテース, ギリシャ語:Ισοκρ?τη?, Isocrates, 紀元前436年 - 紀元前338年)は、古代ギリシアの修辞学者で、アッティカ十大雄弁家の一人。イソクラテスは当時のギリシアで最も影響力のある修辞学者で、その授業や著作を通して修辞学と教育に多大な貢献をしたと考えられている。

背景
ギリシアの修辞学は、一般に、紀元前5世紀に修辞学の法則を最初に考案したシラクサのコラックス(Corax of Syracuse)まで遡る。コラックスの弟子ティシアス(Tisias)は法廷における修辞学の発展に大きな影響を与え、いくつかの文献によると、そのティスアスがイソクラテスの師であったと言われる。彼ら2世代の間に、修辞学は重要な技術になり、その成長は、民主主義や裁判所といった社会や政治の変化によってさらに促進された。

修辞学の訓練の需要はかなり高く、多くの哲学者や教師が雄弁家育成の学校を設立した。その中にソフィストたちがいて、イソクラテスはゴルギアスらとともにソフィストに含まれる。それらの学校が金になることがわかって、後には評判の良くない人々を招くことになった。

生涯
イソクラテスは裕福な家庭に生まれた。父親は笛の工場を経営し、繁盛させていた。イソクラテスは申し分のない教育を受けた。ゴルギアスなどの他、ソクラテスからも教えを受けたらしい。ペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)後、イソクラテスの一家は富を失い、イソクラテスは生計を立てることを強いられた。

イソクラテスは仕事として、ロゴグラフォスを始めたと言われている。これは、いわゆる法廷弁論の雇われライターのことである。紀元前392年頃、イソクラテスは自分の修辞学学校を設立し、有力な教師であるばかりでなく、洞察力のある実業家であることを証明した。授業料はかなり高かったが、他の学校以上に多くの生徒を引きつけた。結果として、イソクラテスはかなりの財を蓄えた。

修辞学
イソクラテスの修辞学教育のプログラムは、絶対の真実を得ることができない、現実的な問題や事件に対処するための言語使用能力に重きを置くものだった。さらに、国家に奉仕するための生徒の公民教育、訓練にも重きを置いた。生徒たちはさまざまなテーマについて、弁論を組み立て・述べることを練習した。イソクラテスは修辞学の法則・理論より、生まれつきの才能と練習とが重要であると考えた。変化のない法則を正確に叙述するよりは、カイロス(καιρ??, kairos)、つまり、時と場合に応じた雄弁家の能力を力説した。

ソフィストに対するプラトンの攻撃のために、イソクラテスの弁論術・哲学学校は、非倫理的で欺瞞的であるように見られるようになった。しかし、プラトンの批判の多くは、イソクラテスの仕事の中に見付けることは難しく、結局プラトンはその著書『パイドロス』(en:Phaedrus (dialogue))の最後で、ソクラテスにイソクラテスを讃えさせている。イソクラテスは理想的な雄弁家は修辞学の才能を持つだけでなく哲学・科学・芸術の幅広い知識を持つべきだと理解していた。さらに雄弁家は自由・自制・徳のギリシアの理想をも象徴しなければならないとも。その意味で、イソクラテスはキケロやクインティリアヌスといった古代ローマの修辞学者たち、さらにリベラルな教育概念に影響を与えた。

修辞術について、イソクラテスは革新者でもあった。イソクラテスは不自然さを避け、明確で自然なスタイルを奨励した。一方で、聞き手の注意を集めるリズムと変化をもたらした。ほとんどの修辞学者たちと同様に、彼は修辞学を、真実を曖昧にするものとしてではなく、むしろ理解しやすくする方法と見ていた。

古代ローマ時代に入手できたイソクラテスの60ある演説文のうち、21が古代と中世の写本筆写家によって残された。別の3つの演説文が、1988年にエジプトのDakhlehオアシスの遺跡の1つ、Kellisから発掘された1冊のコデックスの中に見つかった。イソクラテスの名前で書かれた手紙が9通あるが、そのうち4通は信憑性が疑問視されている。イソクラテスは『修辞術』という論文をまとめたと言われるが、それは現存していない。演説文やその他の著作の中には、自叙伝的な『アンティドシス(財産交換について)』や、『ソフィストたちに対して』といった教科書も含まれる。