ピリッポスを攻撃する演説 デモステネス 中村善也 訳 | mitosyaのブログ

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世界文学大系

ギリシャ思想家集


デモステネス 中村善也 訳

ピリッポスを攻撃する演説
 ―その一―

一〇 それとも諸君は――ひとつお答え願いたいのですが――ただぶらぶらと歩き廻って、「何か変わった話はないか」などとたがいにたずねあうことをもって足れりとしているのでありましょうか。が、一人のマケドニア人がアテナイを制服しようとし、わがもの顔にギリシャの問題を処理している――そのこと以上に変わった話があるでありましょうか。「ピリッポスは死んだというが?」「いやそうではない、病気でいるだけだ」などと諸君は噂していらっしゃる。が、どちらにしても、たいした違いはないでありましょう。

一一 彼に万一のことががあったとしても、すぐに諸君は第二のピリッポスをこしらえあげるにちがいないのであります――諸君の関心のありかたが、今までどおりであるというならば、なぜなら、彼ピリッポスといえども、自分自身の力によって強大になったというよりも、むしろわれわれの怠慢が彼をそうさせたのであるからであります。


ピリッポスを攻撃する演説
 ―その二―

二四 「都市の防衛と安全のためにはいろんな手段が考え出されています。棚や防壁や濠などがそれです。そして、これらすべては人工によるものであって、当然費用を必要とします。
――だが、思慮ある人は生まれながら万人に共通するある種の防衛手段を持っているのです。これは、だれにでも役立つ安全策であるのですが、特に専制君主にたいする民主政治の自衛手段として有効です。あなたがたもこれを持ちつづけ、どこまでもこれを守り抜くことです。これを保持するかぎり、危険な目にあうことは絶対にありません。さあ、諸君の求めるものは何ですか」――こうわたくしは言ったのです――「なるほど、自由だというのですね。それなら、ピリッポスはそもそも肩書きからしておよそ自由とはまっこうから対立しているということがわからないのですか。王とか君主とかいうものは、すべて自由の敵であり、法への敵対者であるからです。諸君も気をつけなければなりません」――最後にわたくしはこう言ったのであります――「戦争から解放されることを求めて、かえって支配者を背負いこむようなことにならないように」

ピリッポスを攻撃する演説
 ―その三―

三六 それにしても、このことの原因は何でありましょうか。むかしのギリシャ人が自由というものにあれほど心をひかれ、今のギリシャ人がこれほど隷従に向かいやすいことの裏には、しかるべき理由と正当な原因があるにちがいないと思えるのであります。かつてのギリシャ人は、アテナイ人諸君、大多数がその心のなかに、あるひとつのものを秘めていたのであります。そしてそれが、今はもうみられないのであります。このものこそ、ペルシャの富をうち負かし、ギリシャの自由を守り、海陸いずれの戦いに負けることを知らなかった因となったものであります。


デモステネス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デモステネスの胸像デモステネス(希:Δημοσθένης、ラテン文字転記:Dēmosthénēs、紀元前384年頃 - 紀元前322年)は古代ギリシアの政治家・弁論家である。アテナイの指導者としてギリシア諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開したが叶わず、自殺へと追い込まれた。

生涯
デモステネスは紀元前384年にアテナイの富裕な商工業者の家に生まれた。しかしながら若くして父を失い、さらに後見人たちに遺産を横領されたため、その遺産奪回を図ってアッティカ十大雄弁家の一人とも評価されるイサイオスに師事して弁論術(雄弁術)を学び、やがて後見人たちを告訴して彼らから全額ではないにせよ遺産を奪い返した。その後、当初は裁判関連の仕事や自らが弁論術を指導することで生計を立てて、徐々に当時のアテナイ政治にも発言を強めていった。

当時のギリシア諸ポリス(都市国家)は、かつてのように一人一人の市民が武装して都市の防衛に従事する戦士集団としての性格を既に失っており、傭兵に依存した戦争を繰り返すうちに市民共同体を維持していくという精神も損なわれていた。一方で、北方のマケドニア王国はピリッポス2世(フィリッポス2世)のもとで強大化が進んでいたため、諸ポリスの独立が奪われる危機に陥っていた。こうした中で、デモステネスは反マケドニアの主張を掲げ、紀元前339年のアテナイ・テーバイ同盟の成立にも尽力したのだが、翌年のカイロネイアの戦いで、アテナイ・テーバイ同盟はマケドニアのピリッポス2世に完敗した。

当時の「世論」は、マケドニアに屈することに対して必ずしも否定的ではなかった。長期に渡るポリス間の抗争は人々を疲弊させており、強大な指導者の下で平和と安定を望む声もあった。デモステネスとほぼ同時代を生きた弁論家イソクラテスもマケドニアの興隆に対してピリッポスの下でのギリシアの団結とアケメネス朝の打倒を論じていたし、デモステネスのライバルとも言えるアイスキネスはマケドニアの下にギリシアを統一すべしと説く親マケドニアの立場であった。そのため、デモステネスは遊説を重ねたものの、反マケドニア運動の機運を十分に高めることはできず、結局はスパルタを除くギリシアの諸ポリスがマケドニアに屈服した。紀元前336年、デモステネスはピリッポス2世が突然暗殺されたことに乗じて再び反マケドニア運動を起こすが失敗、亡命を余儀なくされた。

ピリッポス2世の死後のマケドニアは、新たに息子のアレクサンドロス3世が指導者として東方遠征を敢行するなど指導力を発揮するが、紀元前323年にアレクサンドロスが熱病で急死した。この際にデモステネスはアテナイに帰国し、再度反マケドニア運動を展開し、アテナイはラミア戦争を起こした。しかし鎮圧され、マケドニアの追跡が迫る中で服毒自殺した。

デモステネスの弁論家としての名声は非常に高く、共和政下で弁論に高い価値が与えられていたローマでもデモステネスの代表的な弁論『ピリッピカ』(『フィリッピカ』)はよく読まれた。例えば、マルクス・トゥッリウス・キケロはマルクス・アントニウスを僭主として糾弾する自身の一連の弁論に対し『ピリッピカ』の名を与えている。

外部リンク

アテナイの歴史


デモステネス伝(内田遠湖)
若き日の雄弁術獲得の努力の様子を活写。(日本漢文の世界)
「アテネ 最期の輝き」(澤田典子)
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の華々しい遠征の蔭で、マケドニアに敗れたアテネはどのように生きていたのか。民主政が終焉しギリシアの時代が幕を閉じるまでのアテネの最後の姿を、政治家・弁論家デモステネスを軸に生き生きと描く。一次史料に基づいて従来の通説を再検討し、新しい見方を提示する。