山本有三 ストウ夫人 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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日本児童文学体系
 
 山本有三

 

ストウ夫人

 

 

台所の作家から世界的の作家 一体、黒人のドレイといふものは、アメリカ土着のものではなくつて、スペインがこゝに殖民政策をやつた時代に、アフリカから連れてきたものなのです。しかし一八〇八年後は、法律によつてドレイの輸入は禁止されてゐたのですが、実際にはなほ盛んに行われてゐました。一度安い金で黒人を買い取ると、彼らには給料を払うことなく、死ぬまでこき使へたのですから、こんなうまい商売はなかつたわけです。ですから南部の地主たちは、一方では、黒人を輸入すると同時に、一方では、彼らを繁殖させることによって、二重にも、三重にも利益をあげてゐました。彼らは牛や馬を飼うのと全く同じやうに、黒人を養ひ、決して牛馬以上の待遇を黒人に与へません。そのかはり、子どもを生むことは、大いに奨励しました。 息子の入隊 この作品のアメリカにおける文学史上の価値は、そう高いものではありません。日本の文学者のうちにも「アンクル・トム」なんかという調子で、見向きもしない人もあるやうです。 しかし、文学史上の地位はどうであろうとも、小説「アンクル・トムの小屋」が人類の歴史に残した足跡は、永久に消えることはありますまい。文学者や、文学史家がわかつたやうな顔をして、何かいつているとしても、ひとたび、この作品の果たした役割の前に立つたならば、いづれも帽子をぬいで、敬礼しないわけにはいかないでせう。一体、一つの作品が発表されるといふことは、決して文壇といふやうな狭い範囲内の出来事ではありません。それは社会に、人類に深いつながりを持っているものです。そのつながりのないやうなものは、文学でも芸術でもありません。味はひとか、うるほひとか、寂びとか、幽玄とかいつたところで、実はそこに相通じるものがあるからこそ尊重されるのであつて、人生とかかわりのないような作品は、どんな美しい言葉が列べてあつても、全く無意味な存在です。 黒人の血をつぐなふものは 「われわれアメリカ国民が――北部の人にしろ、南部の人にしろ――南部で行われてゐる、忌まわしい圧制に同意し、それを助長した罪によつて、深い恐ろしい苦しみを嘗めなければならないといふ事。 抑圧と掠奪とによつて得た不正な富は、戦費として払ひ戻さなければならないといふ事。 長い年月、ただ地上に伏して泣き叫ぶより外にすべのなかつた哀れなドレイたちの血は、自由州全体を通じて、その最良の息子たちの血によつて、つぐなはれなければならないといふ事。 ―――― これ等のことはすべて神意によるものである。」

 

 

山本有三

 

 

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山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年7月27日 - 1974年1月11日)は、劇作家・小説家である。本名は山本勇造。呉服商の子として、現在の栃木市に生まれる。

 

 

略歴高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが一度は逃げ出して故郷に戻る。その後、母親の説得で再度東京に戻る。正則英語学校、東京中学に通い、1908年(明治41年)東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。一高を1年落第を経て卒業し、東京帝国大学独文学科に入る。在学中から「新思潮」創刊に参加し、卒業後、1920年、戯曲『生命の冠』でデビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛・芥川龍之介らと文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。だが、昭和に入ると、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』の連載中止に追い込まれるなど軍部の圧迫を受けた。その一方で近衛文麿と親交(一高留年前の学年で同級)があり、1941年(昭和16年)には帝国学士院会員に選ばれるなどその立場は複雑であった。

 

 

戦後は貴族院勅撰議員に任ぜられた。自らが極度の近眼であったことからルビと漢字を憎悪し、国語国字問題に取り組み、「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年に第1回参議院議員通常選挙では全国区1位で当選。1953年まで6年間、参議院議員をつとめて緑風会の中心人物となり、政治家としても重きをなす一方で積極的な創作活動を行った。1965年、文化勲章受章。

 

 

東京都三鷹市に、山本有三記念館がある。また、栃木県栃木市には、山本有三ふるさと記念館がある。

 

 

『破船』事件漱石門下の久米正雄と仲が悪く、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと久米も松岡も筆子も考えていた(関口安義『評伝松岡譲』小沢書店、1991年)。

 

 

著作生命の冠 戯曲集 新潮社 1920
欲生 叢文閣 1920
坂崎出羽守 戯曲集 新潮社 1922 (現代脚本叢書)
女親 稲門堂書店 1922 (戯曲叢書)
塵労 金星堂 1922
同志の人々 戯曲集 新潮社 1924 のち岩波文庫
嬰児殺し 戯曲集 改造社 1924
途上 新潮社 1926 (感想小品叢書)
熊谷蓮生坊 現代戯曲選集 春陽堂 1926
『生きとし生けるもの』(『朝日新聞』1926年9月25日〜12月7日未完)文芸春秋社 1927 のち角川文庫、新潮文庫
西郷と大久保 戯曲集 改造社 1927 のち角川文庫
『波』(『朝日新聞』1923年7月20日〜11月22日)朝日新聞社, 昭和4 のち岩波文庫、新潮文庫、講談社文庫
女人哀詞 戯曲集 四六書院 1931 のち角川文庫
山本有三全集 改造社 1931 (日本文学大全集)
『風』(『朝日新聞』1930年10月26日〜1931年3月25日)朝日新聞社 1932 のち新潮文庫
『女の一生』(『朝日新聞』1932年10月20日〜1933年6月6日中断)中央公論社 1933 のち新潮文庫
瘤 短篇集 改造社 1935 のち岩波新書
心に太陽を持て 胸にひびく話-二十篇 新潮社 1935 (日本少國民文庫)のち文庫
日本名作選(編)新潮社 1936 (日本少國民文庫) のち文庫
世界名作選 1-2(編)新潮社 1936 (日本少國民文庫) のち文庫
『真実一路』(『主婦之友』1935年1月〜11年9月)新潮社 1936 のち文庫、角川文庫
戦争と二人の婦人 岩波書店 1938
山本有三全集 全10巻 岩波書店 1939-41
不惜身命 創元社 1939 のち角川文庫
米百俵 隠れたる先覚者小林虎三郎 新潮社 1943 のち文庫
『路傍の石』(『朝日新聞』1937年1月1日〜6月18日(『新編 路傍の石』は『主婦之友』1928年11月〜1940年7月未完。)岩波書店、1941 のち新潮文庫
道しるべ 実業之日本社 1948
山本有三文庫 全11巻 新潮社 1948-50
竹 細川書店 1948
無事の人 新潮社 1949 のち文庫
山本有三作品集 全5巻 創元社, 1953
山本有三文庫 全7巻 中央公論社 1954-55 (中央公論社作品文庫)
海彦山彦 角川文庫 1956
濁流 雑談=近衛文麿 毎日新聞社 1974
山本有三全集 全12巻 新潮社 1976-77
兄弟・ふしゃくしんみょう 旺文社文庫 1979

 

 

翻訳
名誉 ヘルマン・ズーダーマン 赤城正蔵 1914
死の舞踏 ストリンドベルク 洛陽堂 1916
シュニッツレル選集 楠山正雄共訳 新潮社 1922
情婦殺し シユニツツレル 新潮社 1926

 

 

文学碑太平山(栃木県栃木市) 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか」(『路傍の石』より)
その他にも栃木市内に数多くの文学碑が在る。

関連項目
 
日本における検閲

 

 

 

 

 

 

外部リンク