川端康成 椿 | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

イメージ 1

日本児童文学体系
 

 

 川端康成

 

 

   椿

 

 

椿の花は正月前後から四月ごろまでに咲くのに、十一月の初めから大きいつぼみのあることに、鈴子は感動した。裏庭にでて、そのつぼみを一つ取ってみた。 葉のあいだで目立たぬほど青いつぼみである。爪で割ろうとしたが固いので、鈴子は歯をあててかみ切った。 なかはオレンジ色で、それはおしべであった。花びらはまだ花びららしくなくて、青白く小さいのに、その固いつぼみのなかに、いっぱいのおしべの頭はもう大きかった。鈴子はおどろいて、しばらく眺めていた。 いろんな点で鈴子は文子の強さに押されるような時もあるのだった。 しかもこの妹が、実の妹ではなくて、義理の妹であることを知っているから、かえって妹に負けてやるという気になるのかもしれなかった。 家じゅうでそのことを知らないのは、本人の妹だけだった。知らないからこそ、わがままで押すこともできるのだった。母や鈴子は知っているからこそ、文子のわがままを通してやることもあるのだった。 もし文子自身が、この家の子ではない、鈴子の妹ではないと知る時がきたら、文子はどうなるのであろう。 しかも、その時はきたのであった。 文子は一週間たっても起きなかった。冬休みが終わっても学校へいかなかった。 鈴子はなるべく文子にさわらぬようにしていた。 寒さが少しゆるんだかと思える夜、鈴子が二階へ寝に上がっていくと、文子はひとりで自分の手を眺めていた。 「お姉さん、爪を切ってちょうだい」と文子がいった。 鈴子が爪切りを持って坐ると、文子は素直に手をまかせていた。 「冷たい手ね、熱がまだあるの?」 「もうないわ」 「ずいぶん伸びてるわね」 「そうよ。もう文子はなんにもしない、爪も切らない」 「それでお姉さんに切らせる?」 「そうよ」 爪を切る音がぺちりぺちり聞えると、鈴子は涙を落としそうになった。

 

 

 

川端康成

 

 

 

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川端 康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 - 1972年〈昭和47年〉4月16日)は日本の小説家。

 

 

大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表し、1968年(昭和43年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。1972年(昭和47年)、ガス自殺した。

 

 

経歴1899年(明治32年)6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。父は栄吉(医師)、母はゲン。姉芳子。

 

 

幼くして近親者を亡くす。1901年(明治34年)に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三又郎、祖母のカネと一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。1906年(明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の茨木市立豊川小学校)に入学。笹川良一とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。しかし、9月に祖母が死に、1909年(明治43年)には別離していた姉も死亡した。1912年(明治45年)、大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に入学。2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。

 

 

作家を志したのは中学2年のときで、1916年(大正5年)から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになった。1917年(大正6年)に卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始め、第一高等学校の一部乙、英文科に入った。後年『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。その後10年間、伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになった。

 

 

1920年(大正9年)に卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学。同期に北村喜八、本多顕彰がいた。同年、今東光、鈴木彦次郎、酒井真人らと共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画。また、英文学科から国文学科へ移った。1921年(大正10年)、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となった。大学に1年長く在籍したが、卒業した(卒業論文は「日本小説史小論」)。1924年(大正13年)、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。1926年(大正15年)、処女短篇集『感情装飾』を刊行。1927年(昭和2年)、前年結婚した夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転。同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『文学界』の同人となった。

 

 

『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、1944年(昭和19年)、『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。文壇デビューさせたその師的存在である。『千羽鶴』『古都』などの名作を上梓しながら、一方で1948年(昭和23年)に日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年(昭和32年)に東京で開催された国際ペンクラブ大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年に菊池寛賞を受賞した。1958年(昭和33年)に国際ペンクラブ副会長に就任。また1962年(昭和37年)、世界平和アピール七人委員会に参加。1963年(昭和38年)には、新たに造られた日本近代文学館の監事となった。1964年(昭和39年)、オスロで開かれた国際ペンクラブ大会に出席。断続的に「たんぽぽ」の連載を『新潮』に始めた。1965年(昭和40年)に日本ペンクラブ会長を辞任したが、翌年に肝臓炎のために東大病院に入院した。

 

 

1968年(昭和43年)には「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、彼の叙述の卓越さに対して ;"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」ノーベル文学賞を受賞した。授賞式では「美しい日本の私 その序説」という記念講演をおこなった。翌69年から1974年にかけ新潮社から『川端康成全集』全19巻の刊行が始まっている[1]。その後、台北のアジア作家会議、ソウルの国際ペンクラブ大会に出席[2]、日本近代文学館の名誉館長にも就任したが、作品の数は激減してしまった。

 

 

1972年(昭和47年)4月16日、逗子マリーナ・マンションの仕事部屋でガス自殺。享年72。戒名は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった『たんぽぽ』の他には、短編が数作品あるだけであり、ノーベル賞の受賞が重圧になったといわれる。以前より睡眠薬を常用していた。遺書はなかったが、理由として交遊の深かった三島の割腹自殺(三島事件)、都知事選応援に担ぎ出され候補が落選したことへの羞恥、老いへの恐怖などによる強度の精神的動揺があげられる。翌年に財団法人川端康成記念会によって川端康成文学賞がつくられ、1985年(昭和60年)には茨木市立川端康成文学館が開館した。また、大阪府茨木市名誉市民であった。

 

 

ただし、自殺については否定的な意見もある。川端が日本ペンクラブ会長時に信頼を寄せた同副会長の芹沢光治良は「川端康成の死」と題して、自殺ではなかったとする説を随筆に書いている。