隆達小唄集 中世近世歌謡集 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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日本古典文学大系

 

 

中世近世歌謡集

 

 

 

隆達小唄集

 

 

 

隆達唱歌 総計一百五十章

 

 

 

君が代は、千代にやちよに、さゞれ石の、岩ほと成りて、苔のむすまで。 おもひ切れとは、身のまゝか、誰かは切らん、戀のみち。 雪おれ竹を、そのまゝ垣に、よは皆人の、いひなし。 月夜のからすは、ほれてなく、我も鴉か、そなたにほれてなく。 縁さへあらば、亦もめぐりあはふか、命にさだめないほどに。 あすをも知らぬ、露の身を、責めて言葉を、うらやかに。 物のしゆんなは、春の雨、猶もしゆんなは、旅のひとりね。 憂き世は夢よ、消えてはいらぬ、とかいなふ、とけてとかいの。 雨のふる夜の、独寝は、いづれ雨とも、なみだとも。 生るゝも、そだちも知らぬ、人の子を、いとをしいは、何の因果ぞの。 逢うまでの、命もがなと、思ひしに、くやしや君の。つらければ。 すみかとて、紫のいほりも、なつかしや、宮古なれども、旅は憂ゐもの。 後生をねがひ、憂世もめされ、朝顔の、花の露より、あだな身を。 心なしとは、それ候よ、冴えた月夜に、黒小袖。 文禄二年八月日 時庵 隆

 

 

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)

 

 

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隆達(りゅうたつ、大永7年(1527年) - 慶長16年11月25日(1611年12月28日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日蓮宗の僧。小歌隆達節の創始者。号は高三坊・自在庵。

 

 

12世紀の末に中国(宋)から筑前国博多に渡来した劉清徳の子孫と伝えられる。その後和泉国堺に移り薬種問屋を営み高三(たかさぶ)を姓とした。堺の日蓮宗顕本寺に庵室を造立して隠居所とした高三隆喜を父とする。隆達は幼くして顕本寺で出家し、父の庵室を引き継いで高三坊・自在庵と号した。連歌・声曲・書画などに秀で、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞・作曲を行い独特な声調の隆達節を大成した。1590年(天正18年)兄の隆徳が没し、嗣子の道徳が幼かったことから、還俗して道徳の後見人となり家業の薬種業を後見した。書でも一家を成して堺流と称され、豊臣秀吉に召しだされたと伝えられている。