『賢者ナータン』 浅井真男 訳   ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ep | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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世界文学大系

古典劇集 Ⅰ

ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing)

『賢者ナータン』 浅井真男 訳

 
 第三幕

 第五場

ザラディーン
わしはまるで別の方面のことでおまえに教えを乞いたいのだ。まるで別のことでだ。――つまり、おまえはじつに賢明なのだから、どうか、わしに言ってもらいたい――どんな信仰が、どんな掟がいちばんおまえの気に入ったか?

ナータン
ズルターン様、私はユダヤ人でございます。

ザラディーン
そして、わしは回教徒だ。わしらのあいだにはキリスト教徒がおる。――この三つの宗教のうちで、真の宗教はどうしても一つしかありえない。おまえのような男ならば、生れの偶然によって投げ出された場所に立ち止まってはおるまい。もしまた立ち止まっておるならば、見識と根拠と、より良いものの選択によってであろう。さあ、さあ!

第七場

ナータン
遠い昔のこと、東方に一人の男が住んでおりましたが、この男は愛するものから与えられた、はかり知れぬほど貴重な指輪を所持しておりました。石は蛋白石でございまして、さまざまな色を現します。この指輪が不思議な力を持っておりまして、その力を信頼してこれを所持いたすものを、神にも人間にも好きし者となすのでございます。それゆえ、これを永遠に自分の家にとどめるよう定めましたのも、不思議ではございますまい。すなわち、かようにいたしましたのでございます。彼はこの指輪を息子どものうちの最愛のものに遺しまして、このものがさらにその息子どもの最愛の者にそれを遺贈すべきものと定め、かようにしていつも最愛の息子が、

第四幕

第二場

聖堂騎士
お坊様、かりにでございますな、一人のユダヤ人がただ一人の子を――まあ娘といたしておきましょう――持っておるといたします。彼はこの娘を最大の注意をかたむけて、立派に養育したのでございます。自分の魂よりもこの娘を愛しておりますし、娘もきわめて素直な愛を持って彼に報いております。さて、私どもの仲間に密告があって、その娘はユダヤ人の子どもではなく、子どものおりにユダヤ人が拾いとったものか、買ったものか、盗んだものか――それはともかく、娘がキリスト教徒の子で、洗礼も受けておりユダヤ人によってただユダヤ人娘として育てられたにすぎず、ただユダヤの娘のままに、自分の子のままにしておかれたにすぎないことがわかったといたします。――こうした場合には、どうしたらよろしいものでございましょうか?お教え願いとう存じます。


最終場

ナータン
お父様はわたくしのお友達でした。

聖堂騎士
あなたの友達だった?ナータンさん、そんなことが----

ナータン
ヴォルフ・フォン・フリネックと名のっておいででしたが、ドイツ人ではありません---

聖堂騎士
それまでご存じなんですか?

ナータン
ただ、ドイツ人と結婚なすっただけです。お母様とご一緒にほんのしばらくドイツへいらしただけです---

聖堂騎士
もうやめてください!お願いだから!――しかし、レヒャさんの兄さんは?

ナータン
あなたです!

聖堂騎士
わたし?わたしが兄ですって?

レヒャ
あの方がお兄様ですって?

ジター
兄妹なの!

ザラディーン
二人が兄妹!

レヒャ
(聖堂騎士に近づこうとして)ああ!お兄様!

聖堂騎士
(あとじさりして)この人の兄!


ゴットホルト・エフライム・レッシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729年1月22日 - 1781年 2月15日)は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カント、ヤコービ、ハーマン、ヘルダー、メンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。

生涯
ザクセン州のカメンツと言う小さな町の聖職者の息子として生まれる。ライプツィヒ大学で、医学と神学を学び、その後に著作・創作活動とともにさまざまな職を歴任。まずはベルリンとライプチヒとで、1748-1760年までには著述家、編集者として働く。18歳にして処女作「若い学者」を上演。1760-1765年にはタウエンツィーエン将軍の秘書として働き、後にドイツ国民劇場で脚本家、指導者として働く。

1766年の著書『ラオコオン』でギリシア美術を論じ、後の美術思想に大きな影響を及ぼす「ラオコオン論争」を起こした。晩年には図書館の司書も勤めた。この図書館司書在任中、知人の牧師ゲーツェ(Johann Melchior Goeze。尚、混同しやすいがドイツ屈指の文豪ヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテとはまったくの別人である)とドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こし、代表作でもある「賢者ナータン」の上演のきっかけをつくる。また、生涯を通じて各地へ旅行をし、様々な見聞し、劇作・詩の下地を得る。

1781年に客死。ドイツにおいて、劇作を専門職とした最初の人物でもあった。

作品 (劇作・著作)
「若い学者」(Der junge Gelehre)(1747) - 独善的な死んだ学問に固執している学者を描く喜劇。レッシングの啓蒙思想のはしりとも解せる。
「ユダヤ人」(Die Juden)(1749)
「フライガイスト」(Der Freigeist)(1749)
「フィロータス」(Philotas)(1759)
「ミス=サラ=サンプソン」(Miß Sara Sampson」(1755)
「寓話集」(Fabeln)(1759}
「ラオコオン」(Laokoon)(1766)
「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(Minna von Barnhelm)(1767)
「ハンブルク演劇論」(Hamburgische Dramaturgie)(1767-1769)著作。
「エミリア・ガロッティ」(Emilia Galotti)(1772)
「反ゲーツェ」(Anti-Goeze)(1778)
「賢者ナータン」(Nathan der Weise) (1779)
「エルンストとファルク」(Ernst und Falk)(1778)著作。
「人類の教育」(Die Erziehung des Menschengeschlechts)(1780)著作。

邦訳と邦語文献
『ラオコオン』(岩波文庫)(筑摩書房)戦前の訳
『ハンブルク演劇論』(現代思想社、鳥影社) 現代思想社版と鳥影社版は訳者が異なる
『レッシング名作集』(白水社) 戯曲の代表作4作を収録
『賢者ナータン』(岩波文庫)
『エミーリア・ガロッティ、ミス・サラ・サンプソン』(岩波文庫)
渡邉直樹『レッシング 啓蒙精神の文芸と批評』(同学社)
安酸敏真『レッシングとドイツ啓蒙 : レッシング宗教哲学の研究』(創文社)
南大路振一ほか『ドイツ市民劇研究』(三修社)