坪田譲治 村に帰るこゝろ  | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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日本児童文学体系
  坪田譲治

 村に帰るこゝろ

 その夜は真っ暗な闇夜で、黒い天鵝毛を張った様な空には一面に金色の星がキラキラと閃いてゐた。彼が学校の復習をしてゐた時であった。外で突然小さな竹の笛を吹くような哀れな犬の声が聞こえて来た。彼は急いで物干しへ行って見た。見ればマルが綱をすっかり柱にまきつけて身動きのならない様に首をしめられて泣いてゐた。
「こら、おとなしくしてゐるんだぞ。マル、マル」
 斯う云って、綱を延ばして、彼は帰って来た。処が彼が内に入ると間もなく、またその声が聞こえて来た。そこで正太はまた物干しに行って見た。しかし今度は何もなかった。犬は淋しさに泣いてゐるのであった。正太は犬の頭を一寸撫でると、直ぐに引き返して、それからはもうもう犬の処へは行かうとしなかった。そこで犬は泣きつゞけた。自分の惨目さを訴えるかのごとく、ヒエーヒエーと泣きつづけた。

 正太はそれなり夜になっても内に帰らなかった。しかし都会の雑踏は悲喜哀楽凡ての人々の感情を一つに混じって空の上に大きな渦を巻いて響いてゐた。正太の父親はその雑踏の中を正太を探してさ迷ってゐた。

 

 

○思い出すものがあって、出来事、人、時、その限りない記憶をひも解くことの幸せという感情、坪田譲治の童話が、そうしたもので構成されているとわかる。誰にでもあるそれら幸せという感情の根底にあるもの、童心という、世界へ誕生した時の記憶。

 

 

 

坪田譲治 (作家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 

坪田 譲治(つぼた じょうじ、1890年(明治23年)3月3日 - 1982年(昭和57年)7月7日)は、岡山県出身の児童文学作家。

 

 

略歴
1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市島田本町)に生まれる。父・平太郎はランプ芯製造会社の島田製織所を経営していたが譲治が8歳の時に逝去し、大学生だった兄が家業を継ぐ。以後会社の内紛が続く。のちに譲治も経営に参加する。(これは、後の小説に反映されることになる。)

 

 

1908年(明治41年)早稲田大学文科予科へ入学、童話作家の小川未明と出会い、強い影響を受ける。1926年(大正15年)短編小説『正太の馬』を発表、翌年処女短編集『正太の馬』を出版、また雑誌『赤い鳥』に童話を投稿したりするが、プロレタリア文学台頭の中、収入に結びつかず、困窮生活を送る。1935年(昭和10年)山本有三の紹介で『お化けの世界』を雑誌『改造』に発表し、好評を得る。翌年朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した『風の中の子供』が絶賛され、幅広い年代層の支持を得て一躍人気作家となる。戦後は、日本児童文学者協会の第3代会長などを務めた。

 

 

後年は自らも童話雑誌「びわの実学校」を主宰し、松谷みよ子、あまんきみこ、寺村輝夫、大石真等の後進を育てた。

 

 

『お化けの世界』や『風の中の子供』、『子供の四季』などの「善太と三平」物が名高い。全集が三度刊行されている(『坪田譲治全集』8巻本、12巻本。『坪田譲治童話全集』10巻本)。

 

 

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