ムイシキンの「この五分間」 | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

イメージ 1

私は十年前に死んだ、三年前にも、私は生きよう、生命で生きよう、私の生命をこそ生きよう、人の孤独と、不安とを私の生命で贖い、あと十年、私の生命が、人の生命になるよう、私の生命を生きよう、私はここに居ます、ここに居て世界を見守っていますと、私が目に見させるために、私が耳に聞かせるために、私が心に感じさせるために、大したことない人生だったではなく、これからも大したことはないなどではなく、私は見る、私は聞く、私は喜ぶ、私が至高なるものに向かって、一度死んで、誕生した私の生身、私の時という至上の武器を頼りに、私が私の生命を生き切って行き、ムイシキンの「この五分間が果てしもなく長い期限で、莫大な財産のように思え、最後の瞬間のことなど思い煩う必要のないほど、多くの生活をこの五分間に、生活出来るような気がして、さまざまな処置を取り決め、すなわち時間を割りふって、二分間を友達との告別に、いま二分間をこの世の名ごりに自分のことを考えるため、また残りの一分間は最後に周囲の光景をながめるためと、そして最後の二分、いま自分はこうして存在し生活しているのに、もう二分か三分かたったら一種のあるものになる、すなわちだれかに、でなければ何かになるのだ、これはそもそも何故だろう、この問題を出来るだけ早く、できるだけ明瞭に解決しようと、だれかになるとすればだれになるのか、そしてそれはどこであろう、これだけのことをすっかり、この二分間に知りつくそうと、刑場からほど遠からぬところに教会堂が、その金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていて、彼はおそろしいほど執拗にその屋根と、屋根に反射して輝く日光を眺めていて、その光線から目を離すことができなかった、この光線こそ自分の新しい自然である、今、幾分かたったら、何らかの方法でこの光線と融合してしまうのだ、今にも到来すべき新しい未知の世界と、それに対する嫌悪の念は実に恐ろしいもの、けれど、このときもっとも苦しかったのは、絶え間なく浮かんでくる一つの想念、もし死ななかったらどうだろう、もし生命を取りとめたらどうだろうそれは無限だ、しかも、その無限の時がすっかりおれのものになるんだ、そうしたら、おれは一つ一つ瞬間を百年に延ばして、一物たりともいたずらに失わないようにする、そして、おのおのの瞬間をいちいち算盤で勘定して、どんな物だって空費しやしない」と、あの日私は、病院の屋上で、その光線を見、自分の存在と意味とを、明瞭に、確信的に、理解したのだった、それは一分か二分で理解されたのだった、その光線によって私は生かされてきたし、運がよければこれからも生かされるだろうと、二度とは後悔しないように、いつ死んでもいいように生きようと、以来私は生きて来た、私の時、私の世界、私の、私のと---、

純文学小説へ