私は私のしたいことをしていくだけ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

出した手紙の返事がこない、出そうとして出せない手紙は、重くのしかかり、十年が長い一日に、春よ来い、早く来い、四月になれば、あれをして、これをして、私にも意味が訪れ、雪割草はもう咲いている、私の自由、無重力ということ、どこへでも、何にでも成れるではなく、重力にも似た社会的な規制や定義を感じないで済む心ということ、かつてこれらを主観的と排除してきたが、今や、私の主観において、これらは実感されているのだった、無いものを惜しみ求めるのではなく、在るものを喜びとする心の状態、社会が個人において成立していくとするなら、また個人が社会によって生きられるとするなら、この感情で充分であると、私の自由、私の無重力へ、孤独はない、越えた、ただ、残る虚しさだけ、淋しさなどない、この喧噪の中、あらゆる出来事は、私を生きるという課題の前では無化された、あらゆる出来事は、社会的関係から発生し、これらを個人的関係に変化させた時、全ては無化され、私を生きるという現象が起きた、これが無重力ということ、新聞、テレビは見たくない、作品も書きはするが、人に見せたくない、人との関係は、社会的部分の個人には、無人格化して付き合うだけ、私が私を生きるということが、やっと出来てきた、様々な不安、不満が、社会、私に取り巻き、私を生きるとは、これら社会を私の根源において、捉え、関わることであった、末期の眼、極限の眼、奇跡の眼、一回性の眼、長い一日としての眼、去るべきこの世としての眼、ブンのこと、木のこと、空間、時間、存在の意味が真に書ける日がくるかも知れない、私の生きる意味を見つける必要はない、私が生きるとは、何ら意味ではない、意味とは社会的関係のことであり、私個人においては何の意味もない、ただ生命が感じられるだけ、意味とは社会が、社会的関係が私に求めているだけのもの、存在としての私においては、木、犬のように生きている事その中の意味、喜びも、悲しみも、虚しさも、存在に対してただ備わったものとして、ただ意識される私の生がそこには在り、雨の中を散歩しているのだが、歩いている時、思考と瞑想、世界との一体とを、これほど感じることはない、カントが日に三度、同じコースを生涯散歩し続けた理由が、この散歩の中に全てが含まれてあり、人は本来、誤るものであり、人以前のアプリオリなものが、存在する事の証明をしたカント、良心の存在、実存の扉、確実なものの否定、私に於いてアプリオリな喜びとは、家族、犬、植木が元気、花が咲いているなどなど、日常の当たり前なもの、この当たり前なものへの喜び、これが私のアプリオリなも、もし縄紋時代に私が生きているとするなら、私は社会、文学への関心、そこでの意味などより、縄紋時代を味わい尽くすことをするだろう、意志とはその存在を味わうことであり、アプリオリな感情を何より大切なものとして、生命の意志に忠実に、知識などではなく、知識など会話の楽しみの道具にすぎず、相手と向き合って話すとき、相手を共有しようとするとき、知識はなんの役にも立たず、死ぬとなれば、何ら神秘も不思議もなくなり、社会も文学も、必要ではなくなり、死ぬまでの私の生きる理由としての、妻の、子の、犬の、植木の、友人らの行く末などの興味、世界は次々と難問を抱え、が、何の変化も示さず、政治は政治のしたい事をするだけ、私は私のしたいことをしていくだけ、
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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