頭に考えさせるために、私は生き続けているだけ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

今や世界は人の庭と化し、もはや文学が虚構を描く時代は終わったのだから、虚構の人生になってしまった現代にあって、人が人に励ましを与えられると考えるのは、人の幻想にすぎず、私対世界の一対一の関係だけが、人が人として生き始めることであり、フレデリック・バックの木を植えた男のように、一人の人間の可能性と、一人という人間のもつ意味を、一人で木を植え続けたということ、砂漠を緑の森にしたいという一人の人間の意志、自然と共に生きようとする人間が、その自然を自らの喜びのために、生涯をかけ、鳥や、虫と、共に生きたいから、喜び合いたいからと、人としての役割を果たしただけ、これが人に課せられた使命、そして、この一人の人間とは、自然からすれば、神にも勝る能力を与えられているという、そして人の死が、それら自然の中で、迎えられる時、それが自殺であろうと、事故死であろうと、自然なものであり、死は人に必要なものであり、けっして無でも、悲しみでもない姿として、大自然の、厳しい、しかし優しい、一人対世界の、納得される姿がそこにはあり、生と死の意味はそこにあって初めて、自然裡なこととして理解され、私が生きている理由を述べるなら、妻子のため、犬のため、万年青ため、否、実存開明、一寸先は闇、死はいつも目前に見据、瞬間を生きているだけ、偶然に助かったのだから、私はも早存在することだけで意味が与えられ、私と世界という一人の感覚があり、いつ死んでもいい、そして死ぬときは自死でと、それでも尚、私の生きている意味はと考え続けているだけ、世界に金と石コロがあり、がこれは人に於いての金と石コロであって、存在に於いては共に等価値の鉱物であり、存在であり、私の存在意味とは、これら無意味の意味、石コロの存在意味を考えることであるのだった、狂人に備わる、人間の超越した姿としての、存在意味のように、障害者に備わる、障害を通して発見される、意味の伝達者としての使命、障害が特別な使命であるような、価値意識をこそ探究したいのだった、私が腰痛に耐えかねて、台所にうつ伏せるとき、冷蔵庫の隙間の埃、床の上の微細な塵芥、ジュータンの髪の毛、私の目に映る世界はこれだけ、そこに私は私の存在の影を見る、これらも時だ、私亡き後も、これら埃は在るというこの確かさと、私というものの頼りなさ、光、またたき、浮遊するもの、埃、塵芥、それらよりも確かな私というものへの希求、叫び、呪いが言葉となって、時として訪れる無意味、他人も自分も、全ての存在が、俄には信じられず、共感はあっても、それは一時的なもの、自分が信じられないのに、他人や世界がどうして、生きていることの空虚感、生命の終了意識、も早、期待と驚きもなく、惰性の中を生きていることの無意味、かつて社会や人との関係で、私の意味、価値は了解してきた、が今、それらに投影出来ず、個的な、一回性の私の意味、価値を探らないではいられず、狂うかもしれない、頭が回転しなくなるかも知れない、生きたくなくなるかも知れない、全てが詰まらなくなるかも知れない、という予感が、私を困難に、人を喜ばせることで、私は私を喜ばせることが出来なくなっている、意味はない、目的はない、しかし生き続けなければならない、目に見させるために、耳に聞かせるために、手に書かせるために、足に歩かせるために、頭に考えさせるために、私は生き続けているだけ、
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