存在は存在しているだけ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 風呂上がりの肌に夜風が心地良い、あの時ガンバッテ大学へ行っていたら、新緑がどの木々にも、
妻とも結婚していなかったら、左足がやはり痺れる、持病だとはいえ、散歩が疲れる、やはり桜の葉
が一番成長が早いか、もう六年もこの道を散歩しているのだなあ、帰り道の舗道が一番いい、ほの暗
くて、街路樹の道が真っすぐに伸びている。時折、車や人が急いで通り過ぎて行く、全く新しい小説
とはどんなものなのだろう、誰か参考になる作家はいるのだろうけれど、何のドラマ性もなくとも存
在実感のある、芸術が殆ど金と名誉の為に創られている、おや、このニセアカシヤはまだ箭定された
ままで、新枝が出ていないのだ、あと十分もすれば家だ、腰が痛くなければもっと歩いて、何事かを
考えて見たいのだが、左足が痛い、ドラマは面白くない、セリフがあって、心理があって、情景があ
ってと、存在が本当に狭くなってしまう、人は五分間の中に何十年だって入れられる能力を持ってい
るのに、つい一週間前寒さに震えて散歩していたのに、本当に良い季節だ、このまま家族と顔を合わ
せず、書斎があって直行出来たら何ていい散歩だろう、徹夜して語った記憶がある、始発まで寝ない
で喋ってもいいのだが、狭いし、女房も明日は勤めだから、と、僕らには社会に組込まれて家族が居
たんだ、存在実感の感じられる作品を、ドラマ、ストーリーでは表せない、感覚的なところの、生と
死の不思議さの、君と話している時は伝わるのに、字にしてしまうと伝わらない、存在ということは
この生身の人間にたいしてコンタクトすること以外の何ものでもないと思え、電車に揺られ、ほんの
数分の眠りの心地良さ、あの手術のあとの三日間の痛みの中での眠れぬ夜を思い起こす、数分のこの
眠りの心地良さ、天国、極楽に思える、存在実感とはこうしたものであった、対局にある感覚との関
係によって自覚されるのだった、自明のように言われている幸福、あれは不幸、不幸の対局にこそ幸
福が、死の予感と対比する時、この世の全ての存在が、生の予感、存在実感へと変化するのが分かる
 人生の意味を問うことは、存在の意味を問うようなもの、何故宇宙は存在するのか、何故存在は存
在するのかとなる。存在は存在しているだけ、意味も無意味もない、存在に対し問いかけるのは愚に
等しいのだった。人において、その人において、生きていく上で人生は意味をもつが、人を除けば存
在そのものである。あらゆる生命の生、五十年も一秒もただ存在なだけ、オブローモフであろうと、
何であろうと。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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