私の浄土のイメージ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 私の浄土のイメージ。

地球の限られた空間だが、空間とは物質とも違う、時間とも、精神とも違う、ただ広がり、物質を存
在たらしめる場。私は場に帰るのだと。この場は限られた所だが、全宇宙と繋がっている、空間は限
りなく、ただ見通す範囲が人の意識の及ぶ範囲なだけ、たったの二百五十億光年ほどのものではなく
、空間とは無限以外のなにものでもない、有限なものを空間とは意識できないのだから、
 山間の窪地のような場所に、それは在った、自然の空間に人工的なものの出現、新緑の山を背景に
、今にも朽ちそうな一軒の御堂が、池の中央に浮かぶようにして在った。
社会主義の七十年間は短いと思える、私が早や五十才近いのだから、日本の思想、文化、何も変わっ
ていないと思える、あっという間の出来事に思える。一日一日を積み重ねて行けば五十年などあっと
いう間の事に思える、困難に対しては受難を、イエスを生きるだけ、一日一日を生きることは、生命
の理に叶っている、その一日のなかのたった十分であっても、生きられる生の哲学。
 私の存在とは人類に英知を残すことなどではなく、私という人類を発見し、私の人生を感じること
でなければ、書く、考えるという行為は、私が生き私を発見するための道具にすぎないということ。
この無限の時間存在の中で、私を見失わないための大切な道具だということ。私はこの無限を一人で
考え、生きなければならないのだった。人類が、誰がということではなく、私は私で生きてこそ、私
が生きるということなのだったから。宇宙にいて地球を想い、過去を思いではなく、私は地球以外、
過去以外を考えなければならなかった。存在は疑わない、存在が真であって、非存在は嘘であり、そ
れは人間の幻影にしか過ぎないのだということ、全宇宙は人など関係なく存在しているし、存在以外
は何も存在することはないのだから、けっして嘔吐などはもよおさない。
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
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