孤独者との共感を求めてならない | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 孤独者との共感を求めてならない、今という刹那を生きる私において。あの孤独、あの不安、眠りに墜ちようとするその時、決まって訪れたあの孤独。昼間、人々、物達のざわめきの中にあっては、隠されていた黒い、捉えようのない意識。病室の夜のベッドで、どれだけの孤独が漂っていたことか。善人なおもって往生す、いわんやなどという世界ではない、知性や、理性がはたらけない所の絶対無の世界。宗教の悟り、救いなど、昼間の、陽の下でのこと、人と人、人と他の生きものの関係において、あの孤独、人が、他の生きものがいないのだ、ただ私と闇だけ、それらベッドの上の無数の私との共感、孤独において、孤独だけが励ましだった。死んでいた彼ら、意識、視線、肉体、もう半ば死んでいた彼らへの共感だけが、私への励ましだった。

 私が今、共感を求め、考えているのだから、妻や子は、真っ先に理解していて欲しいと願うのだった。何を理解してほしいのか?----。こんな感じなんだ。「時」が流れているだろう、その「時」の流れの中に、僕と君等が浮かんでいて、川下りのカヌーのように流れているんだよ、この流れをまず、あの虹に輝く飛沫のようにとらえること、輝く水面に、したたる岸辺の緑に、岩をかむ水音、急流、また静かな流れ。これらの中を、僕と君らがいま進んでいるということ。あの虹に輝く飛沫のように----。本当に僕らは時の流れを下っているんだ。嘉樹はカヌーに乗ったことあるだろう、オールを漕いでいる時は余り解らないけれど、止まると途端に解る流れ、「時」と人生とはそういうものなのだ。誰でも知っていることなのだけれど、感じてはいない、「時」の中を僕らは進んでいる。これは僕が癌体験の中でつかんだ実感なんだ。君にだけは、輪郭だけでも、僕がそう感じて 、生きていることを解っておいて欲しいのだ。
 僕が「時」よと言うとき、僕はトンネルの中に入っていくような気分になる。輝く光のパイプの中を、君たちと一緒に----。もし、この「時」が、僕自身だけの所有であるというなら、孤独ということ、私対世界、一人対世界の関係なだけ。

 淋しさ、悲しさではないということ、真実の、深い孤独の理解。それは体験し感じた者だけに理解されること、死の淵にあって孤独しかなかったムルソーの実感そのものではあった孤独。ムルソーの物達の無関心への喜び、あれはアイロニーではなく実感、希望であったのだ。無関心と思える物達がその無関心さ故に、輝き、糸杉の一葉一葉に水滴が、ムルソー自身が水滴となって。                              
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