基督信徒のなぐさめ 内村鑑三 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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内村鑑三

 

現代日本文学全集

 

 

基督信徒のなぐさめ
回顧三十年 此書今年を以て発行満三十年に達す。大なる光栄である。感謝に堪へない。 今より三十年前に日本に於いて日本人の基督教文学なる者はなかったと思ふ。若しあったとすれば、それは欧米基督教文学の翻訳であった。日本人自身が基督教の事に就て独創の意見を述べんと欲するが如き、僭越の行為である乎の如くに思はれ、敢えて此事を為す者はなかった。丁度其の頃の事であった、米国人某氏が余を京都の寓居に訪うた。彼は余に問うて曰うた「君は今何を為しつつある乎」と。余は彼に答えて曰うた「著述に従事しつつある」と。彼は更に問うて曰うた「何を翻訳しつつある乎」と。余は答えて曰うた「余は自分の思想を著しつつある」と。此答えに対して彼は「本当に!」と曰ふよりほかに辭がなかった。誠に当時の米国人(今も猶然り)の日本の基督教信者に対する態度は大抵如斯きものであった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 

内村鑑三内村 鑑三(うちむら かんぞう、男性、1861年3月26日(万延2年2月13日)- 1930年3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

 

 

 

経歴
高崎藩士内村宜之の長男として江戸小石川に生まれる。

 

 

東京英語学校(後の東京帝國大学予備門)に入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓にあたる技術者を急造する目的で設立された札幌農学校に入学する。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級生となった。内村ら(第二期生)が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、ついにほとんど強制的に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。

 

 

明治11年(1878年)6月2日には、米国メソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。明治14年(1881年)、札幌農学校を卒業し、北海道開拓使に勤める。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に札幌基督教会を創立する。

 

 

明治17年(1884年)に私費で渡米し、拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、医師であるI.N.カーリンと出会い、ペンシルバニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンにある精神薄弱児童養護学校で看護人として勤務することになる。この時期、札幌同期の新渡戸稲造とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒と親交を持つ。翌年9月にはマサチューセッツ州のアマースト大学に選科生として編入する。

 

 

在学中、同大学の総長であり牧師でもあるJ.H.シーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。明治20年(1887年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてコネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し、明治21年(1888年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。

 

 

帰国した明治21年9月から新潟県の北越学館で勤務したのち東京に戻り、東洋英和学校、水産伝習所などで教鞭を執る。明治23年(1890年)から第一高等中学校の嘱託教員となったが、翌・明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼をおこなわなかったことが同僚・生徒などによって非難され、それが社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。

 

 

この事件によって内村は体調を崩し、2月に依願解嘱した。これがいわゆる「内村鑑三不敬事件」あるいは「第一高等中学校不敬事件」である。この後、泰西学館、高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校と教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。この流浪・窮乏の時代とも呼べる時期に、内村は、『基督信徒のなぐさめ』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表した。

 

 

明治30年(1897年)に上京、黒岩涙香が社主を務める朝報社に入社し、同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。翌・明治31年(1898年)には退社するが、明治33年(1900年)からは客員として寄稿した。また、明治31年に『東京独立雑誌』を発刊し主筆となり、明治33年には『聖書之研究』、明治34年(1901年)には『無教会』を創刊した。この時期から自宅において聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れる。また黒岩や堺利彦、幸徳秋水らと社会改良を目的とする理想団を結成した。

 

 

日清戦争は支持していた内村だったが[1]、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、明治36年(1903年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じる。ここに至って内村は、萬朝報を離れることとなった。

 

 

このように非戦論を強く訴えた内村だったが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。また、斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村が斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させている。

 

 

これは「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。また、「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じた。

 

 

彼は「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。

 

 

幸徳秋水ら社会主義者との関係が深かった内村だが、後年にはその社会主義をも批判している。大正4年(1915年)の『聖書之研究』での「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」というのがその主張である。

 

 

 

著作
How I Became a Christian(『余は如何にして基督信徒となりし乎』)
『求安録』
『基督信徒のなぐさめ』
Representative Men of Japan(『代表的日本人』)1908年 - Japan and Japanese(1894年)の改訂版
『地人論』
『デンマルク国の話』ISBN 4003311949(岩波文庫)
『後世への最大遺物』ISBN 4003311949(岩波文庫)
『宗教と文学』
『時論』