魂の清浄を信じるのが、神道 | 葛木御歳神社から~宮司がゆったりのんびり綴ります

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1600年以上の歴史を持つ葛木御歳神社の宮司東川優子が日々思うことを書き綴ります。




何度も何度も書いていますが、尊敬する谷省吾先生の言葉を後半に掲載しますね。
神道の優しいところは、根源に清浄なるもの、神聖なるものが備わっていると考えること。
「過ちおかすことのあらんをば、かみなおび、おおなおびに見直し聞き直しまして。」
祓えによって、祓うことができるという考え。
祓うことによって、本来の静謐なるところへ帰ることができるという考えです。
これは、各々自分自身の自覚によるものであり、他人に支配されるべきものではありません。
評価は他人がするものではなく、自分自身がするもの。
何故なら、魂の根底に神様のカケラが宿っているからです。
それを信じることができれば、多くの困難は困難ではなくなります。
自分自身を生きるのです。
他人を生きてはいけません。
他人に支配されるというのは、みかけの支配だけではなく、例えば人から侮辱されて傷ついた状態もそうです。侮辱した人こそが魂をすり減らしているわけで、侮辱されても、奥底の魂の輝きを信じていれば、跳ね返す事ができます。相手への嫉妬憎悪恨みも相手に支配されている状態なのです。
それでは、本来の自分を生きることは難しい。そこから解放されて、内なる自分と真摯に向き合うことができれば、光の射す場所に行ける、真に生きる力を持つ事ができる。

それが、谷省吾先生の説く神道なのだと。人の心に希望をもたらすものなのだと思います。

「…根源にあるものは、善というべきものでもなく、悪というものでもなく、両者の対立でもありません。愛というべきものでもありません。根源にあるものは、清浄な神聖性、神聖なる清浄でありましょう。神道とは、その清浄を取りもどそうとするものであります。祓えによって、それに近づこう、それを取りもどそうとする。たえず、祓を繰り返すことによって、その本来のものへたちかえらせていただこうといたします。その本来の清浄、本来の神聖、それはすなわち、いのちの出てかえるところであります。そこへかえるとき、いのちはよみがえります。その神聖な清浄がいのちの出発点であり、ふるさとなのであります。 

このいのちの根源の神聖性の自覚、清浄の自覚、それは大いなる可能性の自覚でもありますが、そこに生に対する誇りがあり、喜びがあり、人が生まれることのめでたさがあると思います。いわゆる原罪の思想からは、基本的にこの喜びは与えられないのであります。 

神道は、その窮極には神々にも通ういのちの、たましいの、連続を自覚しました。神道において神々は、おそろしきものであります。しかし、なつかしきものでもあります。そのいのちの連続を自覚したとき、単なる原始以来の信仰というべきレベルを超えた「神道」の成立があったのであります。(中略) 

神道は光であります。神道は目先の利益によって人をひきつけようとするものではありません。人間に原罪を認め、彼岸や天国に救いを求めるものでもありません。存在を仮のものとするものでもありません。現実の中に、歴史の中に、神聖なもの、清浄なもの、純粋なるものを求め、それをよりどころとして示すものであります。外なるものを洞察し、内なるものをつきつめて、神道が示すその一つが、ここに考えてまいりました「いのち」の信仰、「いのち」の自覚というものであろうかと、思うのであります。 

そこに神道の光があり、力があります。われわれは、その光と力とが、現代に生きる我々ひとりひとりのうちに、脈うっていることを自覚したいと思います。時代の困難を克服する光と力とを、はるかな未来に模索することはない。悠久の昔から、波乱万丈の歴史の中で輝き続けてきた光と力とが、やはり変わらぬ光と力とを以って、われわれを導くものであることを確信するのであります。」 

「神を祭る~(現代生活と神道~いのちの自覚 章より)」谷省吾著 皇學館大學出版部