夫ロベルト・シューマンの交響曲第4番の初稿版を

親しくもないヴュルナーが

ブラームスから遺品として渡されて編集・出版する

 

そんな重要な話を音楽雑誌から知ったクララ。

 

寝耳に水とブラームスに怒りをぶつけました。

 

何年も前にこの件は手紙でやり取りがあり、

そこから誤解が生まれたようです。

 

許可を求められたクララは乗り気ではなく、

立ち消えに。

ブラームスが再度話題に出したものの

クララはスルー。

反対ではないと思ったであろうブラームスと

肯定していないのでこの話は終わったと思ったか

忘れていたクララ

 

そんな状況が思い浮かびました。

 

 

ブラームスの伝記と書簡集

Johannes Brahms

LIFE AND LETTERS

 

STYRA AVINS(編集、注釈)

 

これによると

1880年代後半

第4番初稿を改訂版より好んだブラームスが

賛同を得ようとします。

 

1886年

まず最初にエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルク

(クララ以外で最も親しい女性の友の1人。彼女についてはこちらに書きました)

そしてヨアヒムにこの話をし、

その後クララに手紙を書きました。

 

ブラームスは初稿の方が優っていると考え

フランクフルトでのミュージアム・コンサートで試演する許可を

クララに求めました。

 

7月にクララから乗り気ではないと返事が来ました。

カール・ミュラーという地元の指揮者が

ブラームスの考えに同意しないので

興味本位のお試しにしては

楽譜のコピーなどの経費がかかってリスクが高すぎるというものでした。

 

初演はライプツィヒのケヴァントハウス管弦楽団。

1851年の改訂版は

デュッセルドルフのオーケストラで演奏されたのですが、

ブラームスはこの改訂が

デュッセルドルフのオーケストラのレベルが高くないので

それに合わせる必要に迫られたから

と確信していたらしいのです。

 

本来なら、

ここでブラームスが初稿お披露目、出版について

クララをもう一押し説得したいところですが、

クララはそれどころではない状況でした。

 

三男のフェルディナントの体調が悪化

彼の5人の子供の生活や教育の面倒を見なければならなくなったのです。

 

精神的、経済的負担がクララの肩に重くのしかかります。

 

それを知ったブラームスは交響曲の話は後回しにして

クララの悩みを少しでも軽くすることを考えます。

 

金銭的にサポートしたい

でも彼女のプライドを傷つけずに

受け取ってもらえる方法をあれやこれや考え

手紙を送ります。

 

最初は失敗、

2度目はさらに考えて断られない方法を見つけ

やっと受け取ってもらえました。

 

クララもブラームスの支援のお蔭で

孫たちの教育費を捻出できました。

 

交響曲初稿の件は1年ほどしてから

ブラームスが再びクララに手紙を書きます。

 

出版者のヘルテルに

ヴュルナーの編集版を出版するのを許可してほしい、と。

 

ところが

クララはなぜかこの件に関して回答を出さないまま

スルーしていました。

 

うっかり忘れたのか、

乗り気でないので返事をせずに事を収めたかったのか理由はわかりません。

 

ブラームスは回答がないのを

反対はされていないと考えたのでしょうか

2年後の1891年に雑誌の告知、出版となりました。

 

 

この時期の2人

 

1880年代から心の距離が感じられた

ブラームスとクララ。

 

その原因は以前にブログに書いた内容と

ブラームスの誤解

(シューマンの作品集に自らが関わった作品が

全て外されたのはクララに嫌がられている)

も影響していたかもしれません。

 

なので、

ブラームスの金銭的支援もあるなど

それなりの交流はあるのですが、

以前ほどの親密さはなく、

交響曲の許可に関してもしっかり話す機会もないまま

初稿出版になったのかもしれません。

 

この頃のクララの日記に書かれるブラームスは、

話した内容よりも

会った時に機嫌が良かったか悪かったかについてが多い印象があります。

(あまり中身がない。気難しさも増していた?)

 

他にも

クララが才能を認めないとある音楽家について

 

ブラームスより良いのは人当たりの良さくらい

 

と書くなど

才能は認めつつも

ブラームスの性格に難点を感じている様子が見えます。

 

恐らくお互い疑心暗鬼で

誤解が誤解をさらに生んで

心のすれ違いが増していったのでしょうか。

 

この初稿の件以外にも

ブラームスが来た時に言い争い

(これまた何か誤解があったらしい)になったと日記にあります。

 

友情の復活

 

その最悪な状態も

前回のブログに書きましたように

ブラームスの捨て身の手紙によって危機を脱しました。

 

ブラームスが

出会ってからの忠誠心、敬愛は変わっていないことを告げたことで

クララの誤解も解けました。

 

体調の悪化(特に耳や手)でピアノの演奏にも支障をきたし

音楽への情熱が薄らいでいたクララ。

 

ブラームスが新たな作品を送ってくれたことで、

それを演奏する喜びで音楽愛も戻って来ます。

日記にはその気持ちが書かれています。

 

最後の訪問とバッハのパストラーレ

 

ブラームスが生前のクララと最後に会ったのは

1895年10月。

クララが脳溢血を起こす半年ほど前です。

 

その時の話です⬆️

 

その時クララが弾いてブラームスに聴かせたのは

バッハの

Prelude

Fugue with PastoraleBWV590でしょうか?)

 

クララに捧げたというブラームスの

6つの小品 Op.118から

第5番のロマンス

第6番の間奏曲

 

 

バッハのパストラーレは

ブラームスがまだ20代でクララに夢中だったであろう頃

時々2人で一緒に弾いた曲。

 

ブラームスが婚約のち解消した

ピアノ協奏曲第1番を発表し失敗に終わった頃、

1859年11月

ブラームス作のアヴェ・マリア(op.12)の楽譜を送られたクララが

 

この曲を聴いた時の気持ちは

一緒に時々弾いていたバッハのパストラーレを思い出させる

 

と感動をブラームスへお礼の手紙に書いています。

 

これらの演奏が終わった後に

2人がいた部屋に入った娘のオイゲーニエは

クララの頬が紅潮し目が輝いているのに気づきました。

 

ブラームスは深く感動した表情をしていたそうです。

 

年老いた2人

この訪問の翌年、翌々年には世を去ってしまった2人だけれど、

 

この時のクララとヨハネスは

若い頃を懐かしく思い出して

当時に心が引き戻されていたのかもしれません。

 

クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスの絆は

交響曲第4番初稿出版で

「雨降って地固まる」となったようです。

 

気持ちの話は個人の推測ですので、

違うと思われた方にはご容赦いただければと存じます。

 

バッハ パストラーレは

ルパン三世 カリオストロの城の結婚式のシーンで

第3楽章が使われているとのこと(5分4秒から始まります)

(ずいぶん昔に観たので忘れてしまいましたが、、、)

 

 

 

お読みくださりありがとうございました。

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