1860年代、クララ・シューマンは子育てに悩みながらも

うれしいこともありました。

 

1865年11月に次女エリーゼがピアニストとしてデビューしたのです。

 

ヴァイオリニストのヨアヒムと協演、

そして母クララと父ロベルトの作品を連弾。

コンサートは成功しました。

 

気分屋のブラームス

 

1867年クララはヨアヒムと共にイギリスへ演奏旅行へ行き、

大成功を収めるのですが

クララは元気のない状態でした。

 

次男ルートヴィッヒが起こす問題

三女ユーリエの体調の悪さ

同行するヨアヒムに相談してもつらさを理解してもらえない

 

いつもなら

ブラームスが心の支え

 

ところがこの年のブラームスは気分のムラが激しかったようで

支えどころかクララを滅入らせます。

 

ブラームスが自己憐憫的な手紙を送り、

元気のないクララをさらに落ち込ませました。

 

それに対しては、

叱咤激励する手紙をクララは書いています。

(ブラームスの手紙は残っていないようです)

 

家族そろって過ごす夏、

この年はムーディーなブラームスが

クララだけでなく子供達まで悪影響を与えるので歓迎できず、

共に過ごさなかったようです。

 

今回のブログ、特にブラームスがクララを傷つけてしまった話は

クララ・シューマンの伝記(手紙と日記がメイン)

Clara Schumann: An Artist's Life Based on Material Found in Diaries and Letters

と合わせて

ブラームスの伝記(手紙を含む)

Johannes Brahms LIFE AND LETTERS

Selected and annotated by STYRA AVINS

も参考にしています。

引退勧告!?

 

翌年の1868年2月にブラームスが送った手紙は

ユーリエの体調を心配するクララをなぐさめる内容などから始まります。

 

子供達の心配がつきず一緒にいてやれないつらさ

演奏旅行での大変さ

苦労を聞いてきたブラームスは

収入を得るために無理をしていると考えて

クララのためを思い大胆な提案をします。

 

経済的余裕ができれば演奏旅行の日々をやめて

定住してはどうかと。

 

これを読んだクララは

音楽家としてのプライドを深く傷つけられ

打ちのめされます。

 

クララは愚痴をこぼしつつも

演奏旅行は子供の頃からの当たり前の生活で

生きがいでもあったのです。

 

クララを怒らせたタイミングがこれまた悪かった。

 

以前もそうでした。

(クララがブラームスの作品を人に勧めるのを

手紙で批判して距離ができたタイミングで

ブラームスに恋人ができて婚約した時期)
 

ピアノ協奏曲第1番のお披露目の前に距離ができ

クララは理由をつけて聞きに行かず

待っていたブラームスは落胆。

そのせいではないにしても

この演奏会は失敗に終わったのです。

 

今回は大事なレクイエムの初演前です。

 

クララはブラームスに怒りの返事を翌月書きます。

 

なぜピアニストとして1番状態が良い、成功している時期に引退を勧めるのか

ただでさえ子どもの悩みで打ちのめされているのに、

ピアニストをやめろなどと言って私の気力を奪い取るのか、と。

 

ブラームスはレクイエムの初演に来てくれるようお願いしていました。

この作品をクララは作曲中から気に入っていましたが

手紙で落ち込みがひどく

行くのをやめるつもりでした。

 

協奏曲と同じ運命!?

 

しかし長女らに強く促され、渋々行くことにしました。

 

続きは次回に。。。

 

お読みくださりありがとうございました。

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