前回のブラームスとクララの再燃話から

かなり間が空いてしまいました。

 

1861年

書簡を見ると2人の気持ちは盛り上がっていました。

 

ところが

年末に発表したブラームスの

ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24

(クララを想いながら書いたとのこと)

 

成功というほどの反響がなく、

ブラームスは不機嫌になり

熱も冷めたような友好関係に。

 

ブラームスも

師匠的存在でありクララの夫であった

ロベルト・シューマン並の成功を収めなければ

クララと対等な位置に立てず

(友?敬?純?)愛をささやく気分になれなかったでしょう。

 

クララは

ブラームスの不機嫌な態度にお手上げだったようです。

 

 子育ての悩み

 

そんな1860年代のクララの手紙や日記には

子育ての悩みが頻繁にみられます。

 

特に心配だったのが

三女のユーリエと

次男のルートヴィヒ。

のちに末っ子フェリックスも。

 

ユーリエは病弱

ルートヴィヒは性格や行動

フェリックスは将来の職業や病気(肺)

 三女ユーリエ

 

ユーリエは美しくて性格も良く

結婚した時のブラームスの落ち込みようは

かなりのものだった三女です。

 

彼女は生まれた時から体が弱く、

演奏でたびたび家を空けるクララは面倒が見られず

信頼できるご家庭に預かってもらっていました。

 

クララのお付きでもあった長女マーリエ以外は

このユーリエだけでなく

他の子どもたちも寮制の学校へ。

 

夏休みやクリスマスなどの長期休暇くらいしか

家族揃って過ごせませんでした。

 

特にユーリエは病弱で、

共に過ごす時間が限られていたようです。

 

再会できても

 

咳がずっと出て心配

顔色が悪い

 

と日記に。

 

預け先に様子を見に行くと、

 

前よりも具合が悪そうで

家に連れて帰りたいが移動できる体力がないと医者に止められた

といった記述が何度も。

 

4女オイゲニーの回想録には

姉兄弟について書かれた章があり、

ユーリエの愛らしい人となりを読んでいたので

 

彼女を待ち受ける運命を思うに、

 

こんなに繊細な健康状態で結婚して続けて出産って、、、

 

無理すぎる

 

クララはずっとユーリエの体調を心配し、

彼女の“助さん格さん“である

ヨアヒムとブラームスにも手紙で何度も打ち明けています。

 

ユーリエがイタリア人貴族に見そめられて求婚された時、

クララは不安でいっぱいになります。

 

これはブラームスら親しい友人にも

結婚が決まるまでずっと内緒にしていました。

それだけにブラームスのショックも大きかったのですよね。

 

日記には

 

外国人でクララには文化や言語もよくわからないイタリア

身分の違い

などの不安が書かれています。

 

伝記で読む範囲には書かれていませんでしたが、

母として女性として

クララは出産の大変さを経験していますから、

病弱のユーリエが耐えられるか、かなり心配だったはず。

 

それも昔のことですから、

間隔を空けずに妊娠・出産

 

いやぁ、、、無理だわ無理

 

でも結婚させない?

 

命が長らえれば良いのか、、、難しい問題。

 

恋をし愛され結婚し、家庭を持ち我が子を手にする

 

それをユーリエが望むならば

親は止められるだろうか、、、

 

私もクララと同じく止めないかもしれない

わが娘が幸せを感じる生き方をしてほしい

あとは運命に身を委ね、少しでも明るい未来へと願うしかない。

 

クララは悩んでいましたが、

 

自分とロベルトの結婚ほど大変なことはないだろうから

 

と自分を納得させます。

 

確かに、結婚のために親と裁判したり、

親に誹謗中傷嫌がらせを受けて何年も耐え忍んできましたからね。

さらに

そんな親とも仲直りまでする孝行娘クララ。

 

1869年にユーリエは結婚。

(その時のブラームスとクララの思いはまた別の機会に)

 

結婚して3年のうちに

2人の子どもを産み、3人目を身ごもって亡くなります。

 

 ルートヴィヒ

 

次男ルートヴィヒは

少し何か違うところがあって

飽きっぽい、時間を守れないなど行動でトラブルも尽きず。

職業もコロコロと変え落ち着かず。

 

クララはどうしたらいいのか悩み

専門的なアドバイスをもらったり

学校を変えたり対応に悩んでいたようです。

 

最終的にはメンタルの問題ということで

ロベルトと同様、精神科病棟で

20歳から残りの人生を過ごすことになりました。

 

 フェリックス

 

末っ子フェリックスについては

以前ブログでも書いていますので、

今回は短めにまとめます。

 

ヴァイオリニストになりたいということで

プロのピアニストであるクララが

 

趣味としてはいくらでも楽しめば良いが

プロはやめておきなさい、と厳しく手紙に書いています。

そんなに甘いものじゃないですよ、と。

 

本気で考えているならヨアヒムに一度見てもらいなさい、とも。

 

そして1867年頃から肺の病気の兆候が。

 

 

*三男フェルディナンドの病の兆候は70年代から。

従軍中に患ったリウマチに処方された大量のモルヒネで中毒となっていきます。

 

 相談相手のブラームス

 

 

子供への心配は尽きず。

生活のためとはいえ

演奏旅行で子供達と一緒にいられない、

世話ができない辛さを

ブラームスらに手紙でも打ち明けています。

 

クララから

演奏旅行での大変さ

愚痴を聞かされているブラームスですし、

子供達が小さな頃から子育てを手伝い、

親戚のお兄さんのような感覚ですから

クララと子どもたちを想って

 

ブラームスが1868年にクララに出した手紙

〜お金に余裕ができたら

演奏旅行もやめてゆっくり家で過ごすのもそろそろ考えては〜

 

と意見したのはなんの違和感もないのですが、

 

これがクララに大打撃を与えて、

再び冷え切った関係になってしまったのです。

 

これは話が長いので別の機会に。

 

 働くママと子供たちの関係

 

クララと子供たちの関係は驚くほど良好です。

 

これってすごくありません?

 

長男エミールは生まれた時から体が弱く、

翌年には亡くなってしまうのですが、

そんな前後も演奏旅行に行かなければいけなかった。

 

以前のブログにも書いたのですが、

ほとんど一緒にいられないのに、

子供たちは母クララを尊敬し愛している。

家族が仲良し。

 

会えない時は文通で交流していたとはいえ、

すごいことだと思います。

 

生活のために

シングルママとして頑張っている姿を

子供たちが感じたこともあるでしょう。

 

それと共に、

母クララが音楽の世界で成功して大人気だったことも影響があったかもしれません。

父ロベルトも作曲家としてさらに評価されました。

 

周囲の人が両親を敬愛していたのですから

子どもたちも嬉しく誇りに思ったでしょう。

 

振り返って1847年ロベルトと夫婦でのウィーン公演は

ロベルトの作品に人気がなくて

音楽をわからない聴衆にクララは怒りを感じてしまうのですが

ロベルトが

 

落ち着いて、愛しいクララ

10年もすれば事態は一変しているから

 

慰めました。

 

その言葉が示すように、

ロベルト・シューマンの作品は死後人気が高まります。

 

クララが演奏旅行すれば、

フランス、オーストリア、イギリスと

どこへ行ってもシューマンの作品は熱狂的な歓迎を受けました。

 

クララがロベルトがいてくれたなら、

と日記に書いています。

 

 

私のワーママの知人友人を見ている中で感じたのは

(プラス、仕事に忙しい父親を子どもが好きかどうか)

親が働いている間に

子どもの面倒を見ている人が、

その親を良く言っているかどうかが大事なような気がしています。

 

一緒にいる時間が短くても

その中で楽しく幸せに過ごせることに加えて

 

会えない間も、子どもと一緒にいる人が、

お父さん、お母さんは仕事をしていて

頑張ってるね、素敵だね、

といったポジティブな話を子どもに伝えていると

子どももポジティブな気持ちになれるような気がします。

 

以前、会社の先輩で

小さな子どもを義父母に預けて仕事を続けている人がいました。

その人がお昼ご飯を食べながら、

 

義母が子どもに

お父さんは誰?と聞いたら

子どもはパパを指さしたのに、

お母さんは誰?と聞いたら

義母を指さした

 

と涙を堪えながら話していたのが今でも忘れられません。

(以前も書いたかもしれません。強烈な印象だったので)

 

両親ともにフルタイムで働いていて

パパは指させるのに、

ママは指させないなんて変ですよね。

 

これは特殊すぎかもしれませんが、

私と同じ印象(子どものそばにいる人が働く両親の良い面を伝えるメリット)

を持つ人と何人か出会いました。

 

親子関係は量より質が大事かなと

クララの伝記を読んでいて改めて感じます。

 

 

 

 

お読みくださりありがとうございました。

にほんブログ村 音楽ブログ 音楽のある暮らしへ
にほんブログ村