腕の長い男が民家の軒先で何食わぬ顔で立ち、片腕を上げて電線を軽く揺すっていた。道路の反対側にいる中年の男がそれをずっと眺めていた。人通りのない、住宅地のなかの道路は、ただ無個性な為だけに存在しているような頑なさを守っているように、中年の男には見えた。しかし異変は道路ではなく、電線を長すぎる腕で揺すり続けている男にあった。中年の男は勿論はじめからそれに気付いて立ち止まり、ずっと観察していたのだが、そのサーカスのような男を見ている内に、周囲の風景までが尋常でないものに映っていることにふと気付いたのだ。そしてそんな男をずっと立ち止まり見ている中年の男もまた、自分自身が常軌を逸した行為を続けていることに気付いてもいた。だが彼には、腕の長い男から目を逸らすことは出来なかった。腕の長い男が、ずっと見られていても気にも留めずに、電線を揺らし続けている所為もあったのだろう。そしてそこには彼ら以外に人は勿論、野良猫や鳥さえも存在してはいなかったのだ。
腕の長い男は、ずっと見られていることを気に留めている様子もなく、異様に長い腕を空に向け、鉛色と鋭角に区切られた都市の一郭にある、何の変哲も無い住宅街にある道路脇の、普通なら人間の手の届く筈のない中空に張られた何本かの黒い絶縁被膜に覆われた電線にそっと触れるかのように、何度も揺すっている。その単調な作業に集中していた。周囲を気にすることもなく、ただ取り留めもなく。何時からこんなことをやっていたのか、その中年の男にはわからなかった。だがそれも尤もなことだった。彼自身にも、何故自分がその腕の長い男の不可思議で、非生産的な行為にこれほどまで魅入られているのかもわからなかったし、そのことについて疑問に思ったこともなかったのだから。
だが何れは何事にも終わりがくるものだ。春に咲く花が夏には枯れ、秋に咲くことはないように。その腕の長い男もやがては電線を揺するのを止める時が来た。陽は傾き、空とそこにある千切れた雲をオレンジ色に染めていた。遠くで笛のようなものが鳴っていた。男は電線を揺するのを止めた。それは突然だった。誰に予測することも出来ない。または、予測する意味すらない、ある恣意的連続運動の終焉だった。長い腕を3回に分けて折り畳むと、ホースのように胸のあたりで丸め、余ったもう一方の腕でそれを下から支えた。もう一方の手は長くはなかった。片腕だけが、妖怪のように長かった。男は片腕を折り畳み丸めた後、何食わぬ顔で道路を歩き出した。中年の男には一度も眼をくれなかった。中年の男は、腕の長い男が去った後も、暫くの間そこに立ったまま、どうしていいのかわからない様子だったが、不図目覚めたかのように、腕の長い男が去っていった道路を追い掛けていった。彼の姿はもう見えなかった。どこかで脇道に曲がったのだろう。中年の男はどうしても見逃すものかと、あの異様な男を見つけ出すことが、何時の間にか彼の使命とさえ言えるまでに、彼には義務感のようなものとさえ感じはじめていた。やがて脇道の一つに、更に別の脇道に消えようとするあの男の後ろ姿を見つけた。彼は今では走っていた。何故走っているのかも考えることなく、ただ走っていた。やがて男が曲がった脇道に来ると、今度はまたあの男が別の脇道を曲がろうとしているところだった。彼はまた走り出し、曲がり角まで辿り着いた。だがそこにはあの男の姿はなかった。彼は荒い息をしながらその脇道の奥まで歩いていた。奥の方は行き止まりだった。コンクリート擁壁に遮断されていた。曲がり角からこの行き止まりまでに脇道も無かった。民家やアパートなどが並び、自家用車やバイクや自転車などが一軒家やアパートと道路の間に当たり前のように所々にあるだけだった。人の気配もなく、その細い通りもまるで世間から忘れられたようにひっそりと静まり返っていた。
中年の男は行き止まりから元来た曲がり角まで戻る途中、両側の家や建物を注意深く確認していった。不審者と間違えられて通報されたり家の住人から呼び止められないように出来るだけ何気ない風を装い、何か架空の仕事の為に家々を傍まで寄って確認しているのだという虚妄さえ抱いて観てまわった。片側が済んだら、反対側のもう片方の家の様子を調べた。彼は自分が本当にそのような職業に就いているように信じ始めていた。表札を調べ、悟られないようにしてスマホで家の外観の動画を撮った。何か特別な異音がしないか耳を澄ませ、気を張り詰めた。だがやがて両側の家やアパートを確認して、曲がり角まで戻ったが、あの男に繋がるものは見つけられなかった。そして彼は今更のように後悔した。あの男が電線を揺すっているあいだに、スマホで撮影していれば良かったのだと。何故あの時それをしなかったのか。あの男はあからさまに俺から見られていたにもかかわらずに、ずっと電線を揺すっていたではないか。何も躊躇することなどなかったのだ。だが実際は、躊躇というより、男はただ単にそれに気付かなかっただけだった。やがて男は来た道を戻り、あの奇妙な男が電線を揺らしていた現場まで戻った。言うまでもなく、そのすぐ近くの民家や周囲の建物、男が揺すっていた電線やそれを支えている電信柱などはどこにでもある、何の変哲もないものだった。男が偶にここの道を通る時にいつも見慣れている風景だ。だが中年の男には、今見ているものが、どこかしら、いままで見ていた当たり前の風景とは別のものに映って見えることに気付いていた。男は、あの腕の長い男が立っていたすぐ近くの民家の玄関まで行くと、そこのチャイムを鳴らした。家の中から呼び鈴の電子音が微かに聞こえてきた。だが誰も返事をしないし、誰も出てくる気配もない。もう一度押し、待った。しかし同じことだった。どうやら留守のようだ。表札はベルの押し釦の上にあった。ありふれた苗字がそこにあった。空き家というわけではない。平屋建ての一軒家で、玄関扉の横に部屋の窓があり、カーテンが掛けられている。窓の前に宅配ボックスがあり、上には透明なプラスチックの庇屋根が張り出していた。自転車がその屋根の下、宅配ボックスの横にあり、埃のないサドルからは日々の使用感が窺われた。男は急に自分のしていることが馬鹿らしくなり、何か一寸した罪悪感を振り払うようにその家から離れた。そして中年の男は、あれほどあの奇妙な男を探していたにもかかわらず、それ以来あの男が道路脇に立ち電線を揺らしていた場所は避けて通ることにした。そして男は一年後にはその界隈を離れ、別の街に引っ越した。結局そこには三年もいなかったが、彼はその後、強い風に揺れる中空に張られた電線を見る度に、あの腕の長い男が現れて、彼の前で長い片腕を伸ばして電線を揺すっている光景を見るようになっていた。彼の家の窓から見える電線の下にも彼が立ち、尋常ではない長さの腕を伸ばして電線を揺するようになったということだった。だが再び彼の前に現れても、最初の邂逅の時のように、まるで彼のことなど気付いていないかのように彼の見える場所に立ち、電線を揺するというのだ。あれ以来、彼が遠くの街に引っ越した後も、彼が非生産的な行為を繰り返す怪物や或いはその幻影から、逃れることが出来たのかは、わたしの知るところではない。