ある世紀の、ある国に存在するその都市の一郭にある、その横断歩道では、今日も車やバイクが一時停止せずにその横断歩道を、然もそのようなものなど初めから存在などしていなかったかのように、走り過ぎて行くのだった。そこへ何処からともなく一人の女が現れる。彼女は横断歩道の前の舗道に立つ。だがやはり車は一台も止まらない。鉄の箱によって密閉空間にいる4輪よりは、壁の無い2輪の方が歩行者に近いが、そんな彼らでさえ、止まる事無くクロス地帯を通過していった。

 一体彼女は何の用でこんな碌でも無い横断歩道の前まで来たというのか。ユーチューバーには見えないし(撮影機材らしき物が見当たらない。或いは肩から掛けている、アルマーニのバッグの中に隠しカメラでも潜ませているとでもいうのだろうか。もしそうなら、高級バッグに穴でも空けない限り、その可能性はないだろう。誰が見てもバッグから突出している物は彼女が肩にしているストラップ以外何もなかったのだから)、自殺志願者にも見えない。勿論、渡る必要があるから渡りに来ただけなのかも知れないが、地元の人間なら誰もがここは渡れない横断歩道だということを物心ついた時から知っているから、少し離れた歩道橋を行くか、自転車でも通れる(自転車は降りて渡りましょうということになっている)スロープ状に昇降する地下トンネルを行くかしている。道の反対側から渡ろうとする人々もそうだ。だからこの渡れない横断歩道の前を素通りはするが、その前で立ち止まり、まるで自分が身分の高い者か上級国民宜しく通り過ぎていく下々の車たちに対して、幾分かの侮蔑の交じった態度でそれらに対して睥睨するような視線など送りはしないし、ましてや忍耐強くいつまでも横断歩道の前に、まるで何かを訴えるか車たちに対して皮肉でも浴びせているかのように微動だにせず立ち続けているということもしない。

 通りの両側には打ち捨てられた者たちや或いはまた打ち捨てられたことを当然のように日々軽く否定しながら生きている人たちが結構頻繁に足繁く通う牛丼屋チェーン店がそちらあちらに散見され、渡れない横断歩道の両端に腰が曲がって杖を突いている横断歩道待ちの老人や、黄色い帽子を被った幼稚園児たちが居ても決して停まらずにその目の前を走り抜けて行く車たちが余裕を打ちかました態で滑り込んでゆくガソリンスタンド等もチラホラしており、偶に僻地でも見掛けるその日暮らしの交通量調査のアルバイト泣かせの人通りの少ない歩道や界隈といった、畑か山しか見当たらない曰く付きの土地等という噂が潜んでいそうな見捨てられたような場所というわけでもないのだし、また、行政側や、この前僕の自転車が盗難に遭った為に丁度正午過ぎに警察署に赴いた際に、署員が其々の灰色のデスクを前に座り、何とも香ばしい薫りを辺りに充満させている鰻重にこれから一斉に齧り付こうとしていたその矢先に、タイミングの悪過ぎた僕が、自転車をパクられた遣る瀬無い怒りもあったのだろう、またはこれが一番の原因だったのだが、受付のような場所に立ってから暫く待っても誰も僕の所へは来ようとはせず、椅子に座ったまま鰻重の吸引力から誰一人逃れることが出来なかった為に、彼らが箸を取り、鰻重へと箸を伸ばした丁度その時に、偶々我慢出来ずにその時発した僕の呼び掛けがそんな刹那と重なってしまったが為に、彼らは鰻重に箸を付けるか付けないかという寸止めのところで、皆の箸を選りによってこの僕が止めてしまうという、物悲しい事態を招いてしまったのだった。

 僕は断言してもいい。わざと意地悪して悪いタイミングを見計らい言ったのでは無かったと。ただ、その時の僕は、行き場の無い僕の遣る瀬無さを事務的にでも聞いてくれて然りと疑問にも思わなかった国家権力の人たちが、誰ひとり、立ちながら手持無沙汰の状態でずっと待っている僕のもとへやって来なかった事と見向きもしなかったことによって、元々あった不条理な状態に加えて、自分が誰からも相手にされず見捨てられたような孤独と失望感に突如襲われたような心境に陥ったことから、「駅前で自転車がパクられた」と突然、鰻重を前にした8人位の国家権力であり制服姿の男女に向かって訴えるように言った直後に、彼らが薫り立つ鰻重を前にして誰ひとりとして動くことを止めてしまったのを目撃した時には、不思議な事に僕の中にあったあの遣る瀬無さは、音も無く消失していたのだった。だから既にそんな思いが消失した後、そんな彼らの姿を認めた僕には、もはや彼らに対して淡い悲しみの感情しか抱いていなかった自分を知る事になっていたのであった。

 その様な彼らにしても、当然渡れない横断歩道の事は重々承知していたのだし、税金で生活している以上、看過することは出来ないから、ゼブラゾーンが薄くなって視難く、それで車たちが「あ、そうか。やっぱりな。あそこは横断歩道じゃないんだ。道が何かで白く汚れているだけなんだ。紛らわしいから綺麗に灰色に戻して欲しいものだ。まったくあいつらときた日には」と言わせない為にも、白色を認識できない想像上の生き物でも認識できるようにと、デイダラボッチのふんどしの様に真っ白いゼブラを描いてあるのだった。だから見落とす筈がない。それにお国は庶民に言い訳させないという点に於いては、常に抜かり無く立ち回っているものなのだから。

 そうこうしている内にも、女は渡れない横断歩道の前に立ったまま、微動だにしなかった。そんな女の前を、まるで挑発された闘牛のように車たちが猛々しく走り、女はまるで目に見えない透明なマントで彼らを弄んでいると言われても納得しそうなほど、どこか神々しいオーラを漂わせているかのように意にも介さずに車たちをやり過ごしている。

 そんな彼女を見て、僕は思った。僕にはとても耐えられないだろうと。あのような実に白々しい白線を引いた彼ら、「駅前で自転車がパクられた」と訴えた時、鰻重を前に寸止めを喰らった彼ら、だがそれと同時に善良な国民のあらゆる言い訳を通す道を偉大なる法の下に阻止する彼らの、余り深い意味の無い、記号のような意図。そのひとつである渡れない横断歩道のゼブラゾーン。その前に立ち続ける謎の女。正午過ぎの警察署で、ずっと黙ったまま誰からも相手にされずに立っていた、だがそれもほんのひと時の事に過ぎなかった僕などに比べたら、あの女の忍耐力は優に僕なんかを上回っていたからだ。

 「ぷっぷっぷ!」

 「サンキュー事故があるしなあ。こっちが停車しても、反対側が停まるとは限らないし」

 「中途半端な一時停止よりも、そのまま行ってしまった方が遥かに安全」

 「後ろから車が来ているから、怖くて止まれない」

 「ここよく通るけれど、偶に横断歩道の端でずっと立ったままの人とかいるし」

 「渡る気が無い人とか見掛ける」

 「視力の関係でアイコンタクトが困難なら、せめて渡ろうとする時は、軽く会釈したりとか、片手を挙げたりとかするのが常識だろ。ドライバーに分かるようなことをしてくれないと危ないだろ。こっちが発進しようとすると渡ってくるし。しかもただ黙って、こちらを見向きもしないでいきなり渡ろうとする奴がいる。こっちだって急いでいるんだ。停まってやっているんだから、何だその態度はってなるよな。そういう性格の悪い奴相手だと、わざわざ停まって損した気分になるよな。しかも―――」

 「横断歩道に歩行者がいる場合は、車は停まって歩行者を優先することは勿論知っていますが、反対側も含めて道路にわたしの車しか走っていない場合は、そのまま通過した方がお互いに余計な気遣いをしなくて済むので、そのまま走り去ります」

 「僕の車しか走っていない時だけ安心して停車が出来るので停まりますよ。でも、この横断歩道がある道路に限って言えば、それは皆無かな。ここはいつも交通量が多いからね」

 「信号機が設置されたら停まるよ。周りにも結構お店とかあるんだし、押し釦式でも時差式でも何でもいいから信号機を設置するべきゼブラゾーンだと思うよ。ドライバーと歩行者双方の安全の為にも」

 「前から思っていたけど、何でここ信号機無いの?こういう事に税金使えばいいのに」

 「信号機の無い横断歩道だけのところは車にとっても、そこを渡ろうとする歩行者にとっても一寸した手間だよね。でもその一寸した手間でも油断すると、最悪の事にも成り兼ねないしね」

 「畑や田んぼしかない場所ならあれだけど、ここ絶対信号機必要だよね?」

 「前にひとがはねられたらしいね。前って言ってももう結構昔になるけど。確かまだ若い女の人だったような。よく憶えていないけれど」

 「私よく憶えています。その女の人、この横断歩道を渡っている途中に」

 「昔恋人同士がここで車に撥ねられたって。でも多分それ都市伝説だよ」

 「確かトラックと軽トラに撥ねられたんだ。軽トラに撥ねられた後、反対車線を走っていたトラックに撥ねられた。肩から茶色いバッグを提げた女の人で、二台の車に撥ねられた後、茶色だったバッグが血で真っ赤に染まっていたらしいよ。想像しただけで血の気が引くね」

 「何故か知らないけれど、ここに来ると停まりたく無くなるんだ。何か急かされている気がして。それに毎日ここを走っているけど、渡ろうとして待っている人なんて誰も見掛けた事ないし」

 

 

 

 

 

 気が付いたらその男は、女が立つ道路を挟んだ反対側の歩道に何時の間にか現れ、立っていた。だがこちら側に居る女のように身動きひとつしないわけではなかった。男は一度止まった後、すぐに動いたからだ。しかも車の行き交う車道の方へ、危険なゼブラゾーンを渡ろうとしていた。僕は思わずこちら側の車道のすぐそばまで駆け寄った。クラクションがけたたましく鳴った。

 「バカ野郎!何やってんだテメエ!」

 僕はやっと彼女の正体を知った。

 反対側から横断歩道を渡ろうと、否、既に渡って来ている男は、意に介さず走り過ぎて行く車やバイクの間を、こちら側に向かって歩いて来ている。その顔は常に下方、自分の影の様に暗い靴と交差するゼブラゾーンを見つめているかのようだった。だが一台の車両が男のすぐ前を通り過ぎようとした時、男は思わず歩を止めた。すると僕から少し離れたところにいる動かずにじっと立ち尽くしていた女が突然男に向かって叫ぶのを聞いた。

 「止まっちゃ駄目!」

 男は始終顔を俯かせたままだったが、再び歩を運んだ。左右から横切って行く何台もの車の中やオートバイのライダーの中を通り抜け、やがて男は女の待つ反対側へと、渡れない横断歩道を渡り切った。だがこちら側の歩道にあと半歩で着くかと思った時、恐らく僕が瞬きをした瞬間に一瞬のように女と共に居なくなっていた。僕の前には渡れない横断歩道と、その上を通過していく停まらない車両の群れがひとつの塊りとなり何処までも連なり走り続いているだけだった。