皆様、こんにちは。ご無沙汰しております。6月のある日を境にピタッと更新が途絶え、何か有ったんpでは?と心配された方もいらっしゃると思います。
この間、6月19日朝、体が全く動かないことに気づいて眼がさめ、どうこうしようと体が動かない。そのうち突然の吐き気で傍らにあったゴミ袋に嘔吐でしたが、あれ上手いこと命中しただろうか。
これはただ事ではなく救急車を呼び、一宮市民病院へ緊急搬送。緊急搬送中の救急隊員から脳梗塞の疑いと。脳梗塞、困ったなぁ。私の頭は切れることで知られていたのに。
市民病院へ到着。普段出入りしない救急救命治療室へ。
CTを撮って、小脳出血との徳陽ある脳神経外科医の診断。
とにかく状況が状況なので、今日はここで泊った頂く(入院)。止血剤を投与し、それでも明日、出血していれば出術ね。
そして翌朝、CTを撮った結果、まだ出血が続き、緊急手術が決定、手術は頭を開く開頭手術ではなく、後頭部に小穴あけてステートメントを挿し込み沿革で操作するものらしいです。それでも全身麻酔。手術が終われば、母と叔父が来ていました。
さてこれで療養生活が始まります。市民病院にいるうちは体が全く動かず、せいぜいスマホを扱う手だけ。
こういうものは日にちくするだと、特徴ある脳神経外科医はいいますが、とにかく首を左右に振るだけで強烈な吐き気。
そして10日ほどして、市民病院を追い出されることに。一宮市民病院は三次救急病院なのでほぼ全床が至急病棟です。
この先、リハビリが行えて透析が行える病院ということで、これまで透析を続けていた尾西の泰玄会病院を指定、7月の頭に転院でした。暑い日が続いていたそうですが、私は昨夏、暑さに触れたのはこの時だけでしt。
泰玄会病院での療養も車椅子移動が可能になりましたが、
感染症予防のたけ、病棟から出ないで、とのことで、スマホでTwitter三昧の日々。
二足歩行は出来ぬまでも、そろそろ退院したいと主治医に申したら、退院後の生活を考え、ケアマネージャーの選定、介護保険の認定、んど諸々の手続を経てようやく、病院を出られました。
が、翌日の透析室で透析終了後に休憩室から更衣室に向かおうと、車椅子から立った瞬間、車椅子の折り畳んだ足載せ台に足を引っかけ転倒、頭は壁に激突、すぐ透析室から看護師がかけつけ、とりあえず、緊急外来へ運びこまれ、医師の診察でレントゲン、恐らくどこが骨折したのかお分かりですね。左脚股関節、大腿骨頸部骨頭の折損で、治療法はこの頸部骨頭を取り去りチタン製の人工骨頭をはめ込むもので、当然なら入院、退院して翌日に入院となってしまったことで病院中に有名になりました。w
これには「転倒レポート」という病院内で転倒されたものは全て報告書の形でまとめ、全職員に周知し、要注意ヵ所を徹底するものだそうです。その転倒レポートに私のことも掲載され「知っている人は知っている」状態。病院では事務の人まで有名になってしまいました。
第二次入院から3日後に手術。整形外科の知っている先生、手術室に入ると先に先生がいらして、「頑張りましょう」、すかさず私は「頑張るのは先生や。宜しくお願いします。」で手術台に載せられ、背骨の下の方で麻酔を行い下半身だけの部分麻酔、手術が始まるといろいろな音が聞こえます・伝道鋸の音、打ち付けると、まるで大工作業。しばらくして「終わりました」。この骨折の入院は3週間ほどで終了でしたが小脳出血による不安定性もあり、直ぐには出してもらえなせbbでした。ケアマネージャー、リハビリの担当技師に無理にお願いして退院しました。
退院しても介護ベッド上で生活、透析に行く時だけ相出で入院中とあまり変わらない暮らし・パソコンをベッドへもってきましたが、約5か月のたまった仕事が優先、ブログ更新は後回しから、そのエネルギーが下がってしまいました。
今日は、阪神淡路大震災から30周年。目の当たりにした震災で一生忘れられない出来事です。今日だけはブログお休みにするわけにはいきません。
1995年1月17日未明、この晩は全然寝られず5時も過ぎて、外を行く若者たちの声が聞こえmした、あれは何だ?と、何か見えたとか、そんなことが聞こえました。
やがて家が揺れ始め、地震だと気づきました。揺れはやがて振幅が大きくなり、ユッサユッサと南海トラフの地震が起きたのか?と思いテレビを点けると、どうも関西方面が震源地らしい。
テレビはやがて大阪放送局のものになり、日の出で明るくなると空撮の映像。
深江の阪神高速は横倒し。阪神電車の御影電留線が方向井出8000系車掌が転がっている映像。これらがこうなので、他も察する次第です。

一・一七希望の灯り
これ過去のルミナリエの日に写したので、バックのルミナリエの灯りも写ってしまっています。
一九九五年一月十七日午前五時四十六分
阪神淡路大震災
震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出
… たった一秒先が予知できない人間の限界…
震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間
この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ
今年は午前5時46分の東遊園地における集いの場において、碑文を朗読されるということが有ったみたいです。
私はこの碑文を覚えていまして、その言葉の意味をしっかりと噛み締めました。
ちょっと用事が出来て1990年か1991年に神戸に通い出して、神戸って好い街だなと思うようになり、次第に通うこと自体が楽しみになりました。
そうしたところのこの地震。
それから30年か。私は直接体験したわけではないですが、震災は体験しています。
この事実を後世に語り継いいで行く役割。
地震から30年も経つと当時を知らない人が多くなります。
私に置き換えて考えて見ると、私が住まう地域は1959年の台風15号による伊勢湾台風被害が甚大な地域です。当然私はうまれていませんが、母、祖父母が伊勢湾台風を経験しており、私自身伊勢湾台風からさほど年数を経て生まれたわけではなく、まだまだ台風災害が色濃く残っていた時期でした。
30年人も変わるし人の顔つきも変わる。
変わらないのは私の顔くらい。w
そんなわけでこれからブログ復活しますが、庭の花すら見に行けない状態で、つまらないブログになりそうですが、宜しくお願い申し上げます。