終戦80周年の今年、歴史認識を巡って、台湾と中国が嚙み合わない言い争いをしている。台湾当局(と言っても、在米組織)がロイターにタレ込んだようだ。

 先ず、中国政府が、カイロ宣言やポツダム宣言などの文書には、当時台湾が日本の植民地であったため、台湾を中国の統治下に「復帰」させるべきという文言があり、台湾に対する中国の主権に関する法的主張を裏付けていると主張したらしい。歴史の歪曲である。

 これに対し、台湾当局(AIT:米国在台湾協会)は、毛沢東の中華人民共和国は当時存在していなかったため、第二次世界大戦中のいかなる協定にも中華人民共和国についての言及はなく、中国に台湾の領有権を主張する権利はないと噛みついた。至極ごもっとも、である。

 すると、中国外務省の林剣報道官は、AITの声明は誤解を招くと指摘し、「強い不満」を表明したという。強気だけれども何の根拠もない、お決まりの強がりの反応である。

 ところで、中国では「中国的民主」などと言う。もとより、中国が民主的であろうはずはないが、そもそも定義が異なることが判明した。漢字のマジックである。

 ジャーナリストの近藤大介氏の近著『ほんとうの中国』(講談社現代新書)によると、「民主集中制」とは、主権者である全国民が自分の政治的権利を中国共産党中央委員会に預け、党中央は、そうして全国民から預かった絶対的な権限を、最大多数の国民の利益のために行使する制度だという。ヨーロッパとは異質の中国文明のさまざまな事象をヨーロッパの概念を借りて説明しようとする、いつもの詭弁である。ルソーの言う一般意思なり全体意思がさも中国にも作用しているかのように装いながら、それを巧妙に倒錯させ、つまりは統治者たる中国共産党に都合のよい理屈に仕立て直している。そして中国の民主について、中国の関係者は次のように語ったそうだ。

 「わが国は、偉大な古代の中華文明を引き継いで、四千年もの悠久の歴史を有している。特に、皇帝制度を二千年以上の長きにわたって連綿と続けて来た」・・・文明レベルで見れば間違ってはいないが、それを国家レベルと混同させるのが、あるいは(中華)帝国に読み替えるのが、中国のいつもの詭弁のレトリックだ。

 「それはわが国にとって、皇帝制度こそが最も相応しい統治の方法だからだ。広大な中国大陸に暮らす我々中国人は、皇帝という『重石』を上に戴かないと、すぐに分裂してカオス状態と化してしまう。もしもアメリカ式の大統領選挙など実施したら、多額の賄賂が飛び交うか、候補者が暗殺されるか、多くの有権者が投票用紙に自分の名前を書いたりして、大混乱に陥るだろう」・・・中国人を実に的確に捉えていらっしゃるようだ(微笑)

「そもそも、もしもデモクラシー(民主)なるものがそれほど素晴らしいものなら、中国史において、どこかで誰かが試しているはずだ。わが国には、『民が主(あるじ)』の欧米式民主よりも、皇帝という『民の主(あるじ)』による『中国式民主』がふさわしいのだ」・・・なるほど! そう言えば中国式「法治」の内実も、欧米式「Rule of Law(法の支配=法が上位)」とは異なる中国式「Rule by Law(法による支配=共産党が上位)」だと喝破した専門家がいて、一字違いで大違い(爆)。左翼人士は名にし負うレッテル貼りの名人だが、中国のレトリックはまことに凄まじい。

 中国には近代ヨーロッパ的な意味での「国民」なる存在はない。「国民」のように民族的な記憶や歴史、文化、言語などを共有する集団と言うよりも、砂粒のようにともすればバラバラになりかねない人たちの集合体たる「人民」としか言いようがない。しかしたとえ砂粒でも、ある種の粘着力を以てひとたび固まるや、莫大なエネルギーを発するから、中国共産党は粘着力が生じることを警戒し、監視カメラや草の根に配置した委員会組織を使って、不穏な動きを事前に察知し、芽の内に摘んでいる。

 世界の中で存在感が十分に小さければ、詭弁だろうが何を言おうが勝手で、目立つことなく見過ごして貰えるのだが、存在感が高まるとそうは行かない。昨今の摩擦はまさにそれで、中国の言説の異様さが際立つ。国内に向かって中国共産党の統治を正当化するにとどめる分には害はないが、国内の論理を貫徹するために国外に向かって内輪の論理を押し広げるようになると、そのチグハグさに世界は驚愕し、傍迷惑で、有害ですらある。困った隣人である・・・などとしたり顔で話すのは、私たち日本人に大国意識が抜けていないせいかもしれない。日本の実力はもはやミドルパワーに過ぎなくて、そうだとすれば、良いとこ取りをして中国を利用すればいいだけの話だが、困ったことに、どうやら中国もまだ日本に脅威を感じていて、日本との間ではお互いに不毛な牽制が続く・・・