農村医療に貢献の半生 佐久総合病院 若月名誉院長を描いたミュージカル上演-- | 幸せ信州

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「農民とともに」を合言葉に、戦後一貫して長野県佐久市で農村医療に取り組んできた佐久総合病院名誉院長の故 若月俊一さんを偲んでの市民参加型のミュージカルが佐久市で上演された。
 このミュージカルは、佐久市文化事業団などが毎年開催していて、ことしは園児から60代までの37人により、11月に2日間にわたって上演された。

 

 

本 

『信州の風の色』 若月俊一著  p12

 いま、私どもの医療も大きな転換期を迎えています。従来は、ただ「治療」のことだけ考えていれば、それだけでよかった。来た患者さんの壊れたところを治せばいい。つまり「修繕屋」だったのです。ところが、今は医療からさらに保健(予防)、最近ではさらに福祉、とくに老人の介護まで含めなければなりません。その理由は何かと言えば、最近は厚生省も、二言めには「住民のニーズにより」と言っています。「ニーズ」とは「要望」です。住民の要望こそが基本です。「住民のニーズ」を厚生省にとられてしまいました。私ども佐久病院は最初から住民を重視し、「住民の中へ」(ヴ・ナロード)のスローガンでやってきました。医療の基本はそこにあると、今でも思っています。

 

 

 

星

 医師の若月さんは、19658昭和20)年にいまの佐久総合病院に赴任し、「農民とともに」を合言葉に、医師のいない農村部での出張診療などに一貫して取り組み、2006(平成18)年に96歳で亡くなりました。
  出典 https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20231119/1010028805.html
 


   

 

 

 

 

本 

『信州の風の色』 若月俊一著  p108
終戦を佐久で迎える
 昭和二〇(一九四五)年三月六日、私は佐久病院に赴任することになるのですが、そのときのことを私は岩波新書の『村で病気とたたかう』でこう書いています。
 「その頃東京の上空にはB29があれまわっていた。私は妻と小さな男の子の手をひいて、それから逃れるようにしてやってきたのである。信越線の小諸駅に降りたった時、冷たい山の空気が、痛いほど鼻をついたのを今でもよくおぼえている。
 北に浅間山、西に八ヶ岳の連峰、それから日本一高い山あいを走るといわれるローカル線 の小海線に乗りかえて約一時間、今の「臼田」、当時は「三反田」と呼んだ小さな駅に降り た。この駅から徒歩で一五分、冷たい千曲川の風に吹かれて橋をわたり、まだあちこちに雪 が残っているさびしい田舎町に入ると、もう夕碁であった。(中略)やれやれこれで当分は 生きながらえることができる。ともかく、この山の中で農民の医療のためにしっかり働こう・・・・。」

 この私の書き出しの文章が好きだと、芥川賞の南木佳士民は、わざわざこれを彼の『信州に上医あり』に引用してくれている。そして、これを「私の好きな文章」とも言っているのです。
よく考えてみると、あの当時の私の気持ち、- 「都落ち」と言われて都会を離れる寂しさはあったが、それにも増してこれから農村の中で、大学で習ってきた医学を、百姓と言われる農民のために尺、くしてみたいという強い希望の、複雑にミックスした心情が、この文章の中にあふれているのかもしれない。文学者の目は恐ろしいと思いました。

       『信州の風の色』 若月俊一著  p108