2024年4月20・21日に静岡県の浜名湖レイクサイドビューホテルで日本が誇る名車TOYOTA2000GTオーナー会の開催がありました。

 

 

皆さんTOYOTA2000GTが好きで好きでたまらないオーナーさんで生憎の悪天候でも集まったそうです。

 

 

オーナー同志の情報交換やオフ会連絡とか遠方でもイベントがあると駆け付けるそうですよ!

 

 

今から半世紀前に造られたハンドメイドの高級スポーツカーは流線形で綺麗な造形美の芸術品です。

 

 

海外のオークションでは1億円超えの価格が付き高騰してますね!

 

 

 

家にある2000GTヒストリーの本を読むと色々と知らなかった開発ストーリーが満載でした。

2000Gtの開発にはヤマハ発動機が大きく関わって生まれたスポーツカーであることは、多分皆さんご存じありませんね?

そもそもヤマハ発動機は親会社の日本楽器製造のヤマハから独立して1955年にオートバイメーカーとして発足した会社です。

オートバイの製造で力をつけたヤマハ発動機は、ホンダやスズキのように四輪車の開発を考えるようになる。そのために、新しい商品を開発するヤマハ技術研究所を1959年に設立。乗用車用エンジンとして日本で初めてアルミ製シリンダーブロックとシリンダーヘッドを持った直列4気筒DOHCエンジンを試作する。

それを搭載したFRPボディの2座席スポーツカーの試作車「YX30」が1960年末に完成。開発テストが続けられるも、トップの判断もあり「YAMAHA」ブランドの乗用車が発売されるまでには至らなかった。

 

当初、ヤマハ発動機は4輪車の製造を日産自動車とタックを組んだ。

「フェアレディ1500」(SP310型)のハシゴ型シャシーに2座席クーペのボディを架装した「ダットサン・クーペ1500」、のちの初代「シルビア」となるショーモデルの製作をヤマハ発動機が担当することになったのだが、オートバイの車体とエンジンの製造で経験を積んできたヤマハ発動機だったが、自動車の製造は初めて。

その後、日産自動車との関係が思うように行かず関係が解消されました。

 

日産自動車と縁が切れたヤマハ発動機の初代社長・川上源一は、新たな事業展開を模索し、1964年の年末にトヨタを訪れた。

その頃、河野二郎が率いるTOYOTA 2000GTの開発チームは、トヨタのフラッグシップスポーツカーのプロジェクトが進行中であった。

11月に基本計画を策定し、12月の初めには1/5スケールの全体図を描き上げていた。

しかし、トヨタ社内は新型クラウンやコロナの開発で手一杯で、スポーツカーの試作をしている場合ではない。開発チームはTOYOTA 2000GTの試作に頭を悩ませていた。

そんなところに、ヤマハ発動機の川上社長がトヨタに現れたのである。しかも、スポーツカーの試作車をヤマハ発動機でも作ったという土産話とともに。当時の豊田章一郎常務をはじめとするトヨタ首脳陣に、ヤマハ発動機が試作車を見せたところ、非常に驚きそこでトヨタとヤマハ発動機の提携話が一気に進んだ。

 

TOYOTA 2000GT開発チームにとって、トヨタとヤマハ発動機の提携はまったくの想定外の出来事であった。全体計画図が終了したときに、突如として提携話が持ち上がり、生産設計からヤマハ発動機に委託することになった。偶然なのか、必然なのか。少数精鋭だったTOYOTA 2000GT開発チームに思いがけない強力な助っ人が現れたのがヤマハだったんですね!

こんな裏話は調べないと分からないですよね・・・

と言う事は・・・・TOYOTA2000GTはヤマハ発動機が大きく関わっていてヤマハ発動機の磐田工場で手作り、ハンドメイド、エンジンもヤマハ発動機でDOHC化して生産されたスポーツカーなんですね!

 

 

ヤマハ発動機は、研究員を欧州とアメリカに派遣し、自動車メーカーから工作機械メーカーまであらゆる設備を視察して回ったという。海外視察を通して導き出された答えが、大量生産ではなく当時のポルシェやイタリアのカロッツェリアのような手作業によるスポーツカーの生産だったようですね。

2011年に発売されたレクサスLF-A(V型10気筒5バルブ)もヤマハ製のエンジンが搭載されてますね。

 

そう言えば、2000GT以降のトヨタのDOHCエンジンはほとんどヤマハ発動機製のエンジンが搭載されてましたね・・・代表的なのは1600CCの2TーGエンジンでした。