この国はかつて、
礼儀礼節を重んじる、
礼の国であったが、
しかしいつしか礼の心が失われている。
礼の心、
これは何も、
長幼におけるものだけではない。
つまりは、
目下の者が、目上の者に対する礼だけが、
本当の礼ではなく、
目上の者が、目下の者に対する礼の心もある。
年老いた者が、
地位高き者が、
力ある者が、
年若き者に対して、
地位低き者に対して、
力無き者に対して、
謙虚に、
威張らず、
奢らず、
粋がらず、
上目線で物事を語ることなく、
常に己を振り返りながら接する、
これもまた礼である。
しかしこの礼乏しき国では、
年幼き者が年老いた者に対して、
礼の心を忘れることは、
まだあまり無いが、
年老いた者が年若き者に対して、
礼の心を忘れることなど、
多々、見受けられる。
地位高き者が奢り高ぶり、
地位低き者に接していることなど、
日常茶飯事で見受けられる。
力ある者が粋がり、
常に己を振り返ることなく、
力無き者に威張り散らしていることなど、
北海道から沖縄まで、
どこにでもあることだろう。
なぜならば、
目下の者が、
目上の者に礼を取ることなど、
生きていくための一つの術(すべ)であり、
仕方の無いことであり、
誰でも出来ることだからだ。
たとえば、
コーヒーショップで働いていて、
お客さんに、
礼を取らなければ、
一日で首になるだろう。
あるいは、
新入社員が社長に礼を取らなければ、
やはり簡単に首になるだろう。
しかし、
では客の立場で、
ウエイトレス、ウエイターに、
礼を取る者がどれだけいるだろか。
社長で新入社員に礼を取る者がどれだけいるだろうか。
「モンスタークレーマー」
なんてものが存在するが、
これこそ、
礼の心が失われたその証明と言えるのではないか。
そう、すなわち、
礼の心というものは、
己自身が強者になった時にこそ、
真に試されるのである。
己に礼の心があるかないか、
それを知りたくば、
自分が何らかのカタチで、
目上の立場に立った時に、
威張ることなかったか、
粋がることなかったか、
相手の中に、
自分をはるかに超えていく、
そんな未来の可能性を信じて、
相手に謙虚であり続けたか、
こうしたことを、
振り返るべきだろう。
そして礼の心とは、
「思いやり」
より生まれるものである。
相手に対する思いやりが、
「礼の心」となって現れ、
礼儀礼節を重んじる言動として、
表面に現れていくのである。
礼失われし礼の国・日本。
それはつまり、
思いやりを失いつつある思いやりの国、
ということに他ならない。