見知らぬ友へさらに言葉の付け足し | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

 ニートの方へ、「少しでも彼らの苦しみを取り除きたい」、という想いから、二度ほど言葉を贈らせて頂き、そして言葉を付け足させて頂きましたが、言葉足らずで、しかも未熟な私でありますから、さらに言葉を付け足させて頂きます。

 それは「時間」というものに対する言葉です。

 「時間にストイックになる」ということを述べさせて頂きましたが、「時間」と「人間」、そして「人生」ということについて考えた時、視点を一つ変えてみると、「私たち人間は、24枚の金貨を、毎日、毎日、与えられていて、そしてその金貨の使い方次第で、私たちの人生が大きく変わっていく」、という観方(みかた)も出来ます。

 誰もが24時間は24時間であり、そして誰もが何も知らずに泣きながら生まれて来るというのに、ある人間は人々から愛され、親しまれ、尊敬されて人生を生き抜いていき、ある人間は人々から恨まれ、蔑まれ、軽蔑されて人生を生き抜いていきます。

 こうしたことを考えた時、「私たち人間は、時間をいかに使うか、ということを常に迫られている」という、一つの真実を発見することができます。

 イソップ童話のアリとキリギリスの物語は、その一つの真実を、間接的に私たちに教えてくれているのかもしれません。

 夏の暑い間、アリは汗水たらしながら、必死に巣の中へと食料を蓄え、一方のキリギリスは、歌ばかり唄って遊んで過ごしました。

 やがて冬になると、アリは豊かに過ごし、キリギリスは寒さの中で息絶えていったと言います。

 この童話は、「時間を大切さ」を、私たち人間に教えてくれております。

 しかし時間は本当に誰もが24時間なのでしょうか?

 確かに24時間は、24時間でありますが、では「自分の自由になる時間」ということを考えると、実は大きく異なってくることが分かります。

 ある人は時間に追われ、一日の中で自分の自由になる時間は、わずか一時間しか無いかもしれません。

 しかしその一方で、ある人は時間を持て余し、一日の中で自分が自由になる時間は、睡眠や食事といったそれら以外の全ての時間かもしれません。

 こうしたことを考えた時、また一つの真実が浮かび上がってきます。

 それは「誰もが一日は24時間だが、自由になる時間は人それぞれ大きく異なり、私たち人間は自分に与えられた時間を、何に使っていくかを考えて生きていかなければならない」、ということです。

 たとえば、二人の若い友人がいたとして、彼らは両方とも一日8時間は睡眠を取り、仕事に8時間を費やしていれば、必然的に残された時間は、わずか8時間しかありません。

 一人の若者は、その残されたわずかな時間を、アリのごとく努力に努力を費やしている一方で、もう一人の若者は、キリギリスのごとく酒やカラオケなどばかりに費やしていたら、彼らの十年後、二十年後の人生は、大きく開きが出てくることなど歴然です。

 三十年後、一人の若者は、大会社の社長になるかもしれないし、医者や弁護士になるかもしれないし、歌手や俳優になるかもしれませんが、もう一人の若者は、三十年前とまったく同じ仕事を続けているかもしれません。

 そしてその時、努力に努力を積み重ねてきた若者は、経済的に豊かになっているだけではなく、時間的にも豊かな生活を過ごしていることでしょう。

 なぜなら大会社の社長、医者や弁護士、あるいは歌手や俳優は、確かに忙しい時期が訪れれば、彼らも忙しく働かねばならず、また日々、勉強を積み重ねてもいかなければなりませんが、しかしそうした職業や地位にある人は、確かに時間的にもゆとりを持っていて、ヨーロッパに一週間旅行に出かけることもできれば、家族とたくさんの時間を過ごすこともできれば、読書に一日を費やすこともできるからです。

 すなわち「24時間は誰もが24時間であり、人は毎日、24枚の金貨を与えられているわけですが、その金貨を、無駄使いすることなく、大事に大事に使った者だけが、24枚の金貨をより自由に使いこなしていくことができる」、ということが、ある意味において言えるわけです。

 24枚の金貨は、「分」と呼ばれる1440枚の銀貨に両替することができます。

 私たち人間は、時間に追われがちな存在です。

 ですから、なかなか私たちは、金貨を思う存分に扱えることなどありません。

 たまの休日には、疲れた体を癒すために、「家の中でゆっくり寝ていたい」と思うことは、誰もが一度は思うことでしょう。

 ですから一週間のうちで、金貨を五枚も、十枚も、十五枚も、好き放題に使える人は、やはり恵まれている人でしょう。

 こうしたことを考えると、ここからまた一つの真実を導きだすことができます。

 それは「銀貨を上手に扱い続けて、五年、十年、十五年と努力し続ける者こそ、金貨を自由に扱える人生が開けていき、むしろ逆に、銀貨を粗末にし続けてしまうと、金貨を思う存分に扱える可能性が減っていく」、という真実です。

 ですからなかなか金貨を思う存分に使えない、時間に追われがちな私たち人間は、まずは銀貨こそを大切にすることが大切なのかもしれません。

 そしてやはり、さらに付け加えなければならないことがあります。

 それは、「たとえ経済的にも、時間的にも豊かであっても、愛する妻も無く、家族も一人もおらず、心を開ける友人も、あるいは「親友」と呼べる者さえいない、そんな心貧しい日々であっては、その人生は本当に幸せなのでしょうか?」ということです。

 かつてインドの地において、仏陀は「人生とは苦しみの連続であり、悟りこそ苦しみを断ち切る刃である」という真理をお説きになりました。

 仏陀が説かれたように、人生には必ず苦しみが訪れますが、しかし私たち人間は成長を遂げることで、その苦しみを乗り越えて、心に平安を築き上げていくことができます。

 しかし人はただ年齢を重ねるだけで、人として成長できるわけではありません。

 言葉は選ばなければなりませんが、実は私たち人間は、全ての人間が大人に成れる訳ではありません。

 もっと厳しい表現を使うのならば、人は外見だけの「偽物の大人」にすらも、実は成りかねないです。

 なぜなら私たち人間は、たとえ成人式や還暦を迎えようとも、お酒や煙草や賭け事を憶えようとも、いくら自分の脳力で生活費を稼ぎ出すそうとも、「心が成長していなければ、人間として成長することができていない」とも、十分に考えられるからです。

 つまり「時間」というものは、必ずしも私たちの心に成長を与えてくれるとは限らないわけです。

 すなわち「時間」と「成長」は、あまり関係がないということです。

 若くても、素晴らしい人格を築きあげた大人もいますが、老いても、大した人格を築き上げることのできなかった子供もいるのです。

 ヒットラーは、暴力によって人々を押しつけ、世界に破壊をもたらしました。

 しかし彼に迫害され、様々な苦難と闘わねばならなかったアンネ・フランクは、自らの日記の最後にこう書き記しています。

「私は、人間はその本質において、皆が善であることを信じます。
 もしも私に生命が与えられ、そして自由が与えられるならば、戦争のない世の中をつくり、世界の平和の為に生命を燃やそうと思います」

 この様に、肉体の年齢と精神の年齢は決して比例するものではありません。

 ヒトラーの様な子供もいれば、アンネの様な大人もいるのです。

 老いた愚者もいれば、若い賢者もいるのです。

 しかし偽物の大人の瞳こそ、欲望渦巻いて淀んでいて、醜くいものです。

 そしてその一方で、心を成長させた本当の大人に成った方の瞳こそ、幼子の様に清く澄んでいるものです。

 なぜなら偽物の大人は、心が貧しい為に、人に対する思いやりや優しさに欠け、常に「自分が、自分が」と自己中心的で、自分の欲望を満足させることばかりに心が傾いているからです。

 その一方で、本物の大人は、心が豊である為に、思いやり優しさに満ち溢れ、常に人々の幸福や世界の平和を願って生きているために、瞳に汚れがありません。

 かつて菩提樹の木の下で、仏陀は36歳という年齢で大悟されましたし、イエス・キリストは33歳という年齢で十字架にかけられましたし、中国では孔子が「三十歳にして立つ」ということを説きましたが、その彼らの年齢を超えている人は世に大勢いても、仏教やキリスト教や儒教の開祖である彼らの人格を超えている人間などいるはずもありません。

 その一方で、かつてのインドには、アマラとカマラといって、狼に育てられてしまった少女たちがいましたが、彼女たちは十代後半になっても、自分が人間であることさえも分からずに生きていたのです。

 この様に、確かに年齢という時間は、必ずしも私たち人間に成長を与えてくれるとは限らないということです。

 だからこそ、苦しみが必ず訪れる人生を生きていく私たち人間には、「悟り」というものが大切であり、だからこそ私たち人間は、「悟り」を得て、「人間として成長していく」ということに対して、大きな喜びを感じることができるのです。

 キリギリスは、働かなければならない時期に、働かずに遊んで過ごしたために、寒い冬の中で死に絶えていきました。

 アリは、汗水流してせっせと働いたために、寒い冬をなんとか乗り越えていくことができました。

 しかし私たちはキリギリスでもなければ、アリでもなく、心に愛を宿した人間です。

 人として成長を遂げていき、優しく、勇ましく、正しく成っていくことのできる人間です。

 ですから時にはアリのように、「パン」という名の生活の糧を持ち帰る努力も必要ですし、時にはキリギリスのように、疲れた体と心を癒すために、「保養」という名の趣味も必要ですが、人間として積極的に、「悟り」という名の己の心の成長を求めていくことも必要なのです。

 なぜなら人生には必ず苦しみが訪れますし、その苦しみを断ち切る刃こそ「悟り」でありますし、そして「悟り」を積み重ねてきた者こそ、心優しい人生を生き抜いていくことができるからです。

 私たちは、アリでもキリギリスでもなく、人間です。

 アリは夏の間、せっせと汗水たらして働き、その横でキリギリスが歌って遊んでいても、何ら彼らに愛を与えることをしませんでした。

 そして寒い冬に、キリギリスが「食べ物を分けて欲しい」と、アリたちのもとを訪れても、アリは冷たく追い返して、キリギリスに愛を分け与えることはしませんでした。

 しかし私たちは、心あり、言葉ある人間ですから、アリとは異なる言葉と行動が取れるのです。

 もしもキリギリスのような人生を生きる人がいるならば、私たちは人間ですから、そうした人に対して、こう言うこともできます。

「今は暑く、食べ物が溢れているけれども、やがて寒い冬が訪れたら、君たちキリギリスは死んでしまうよ。
 だから今のうちから君たちも、私たちと一緒に働いていたほうが良いよ。
 それが君たちの幸せのためだよ」

 すなわち、これを人間に置き換えると、次のような言葉になるのかもしれません。

「今は若く、世の中の景気も良く、親のスネをかじることも出来れば、仕事も溢れているけれども、やがては貴方も独立しなければならないし、世の中には不景気も必ず訪れるから、今のうちから時間を大切にして、やれることを精一杯やっておいたほうが良いだろう。
 なぜならそれが貴方のためなのだから」

 また、寒い冬にキリギリスが訪れてきたのならば、次のように言えます。

「だからあの夏の時に言ってではないか!
 私たちアリには、それなりに蓄えがあるから、少しならば君たちキリギリスに分けてあげることはできるけれども、しかしこれからは、きちんと真面目に働かなければ駄目だ!
 それは決して、私たちアリが、君たちキリギリスに食べ物を分けたくないからではない!
 このままでは貴方が、貴方自身が、幸せに成れないからであり、何ら一切、真面目に努力することなく、他人に頼り切った依存の人生とは、堕落の人生であり、そんな依存と堕落の人生であっては、貴方の周りから人々は離れ去り、やがては貴方が孤独な人生を生きてしまうだろう!」

 もう一度、言いますが、人は悟りを得て、人間として成長することで、愛深き、愛を多き、心優しき人間になっていくことに、大いなる喜びを感じます。

 そして心優しき人間になるからこそ、私たち人間は、心勇ましき心正しき人となり、やがては人間関係に調和を生み出していくこともできます。

 そしてこの「人間関係」というものは、苦しみにも喜びにもなりますが、私たち人間は、人間関係を調和させて、喜びに変えていくからこそ、心豊かな日々を過ごして、真に満たされた人生を生き抜いていくことができるのです。

 ですから一日は誰もが24時間であり、私たち人間は、一日に24枚の金貨、1440枚の銅貨を与えられておりますが、それらの金貨と銅貨を、生活の糧を得ることと共に、心の糧を得ることにも費やしていくことが大切だと言えるのです。

 アリのように生活の糧だけではなく、心の満たされた日々を生き抜くために、人として心の糧をも追い求めていくが大切なのです。

 そして銀貨一枚は、「秒」と呼ばれる60枚の銅貨に両替することができます。

 「自分に与えられた時間を何に使うか?」、この判断を下すのは、時に銅貨数枚でありますが、時に一瞬であって銅貨一枚にもなりません。

 つまり「秒」という名の銅貨こそが、銀貨と金貨の使い道を決めているわけです。

 ある時は、一枚に満たない銅貨によって、私たち人間は判断を下し、ある時は、数十枚の銅貨によって、私たち人間は判断を下し、ある時は、銅貨を数百枚、数千枚を費やして、私たち人間は判断を下しているわけです。

 ならば必然的に、この「銅貨」というものが、いかに私たち人間の人生において、重要な役目を果たしているか、それが自然と明らかになってきます。

 今、銅貨を正しく使う者こそが、銀貨を正しく使う者であり、金貨を正しく使う者であり、幸せな人生を生き抜いていく者であると、そう言えるのだと、私、与国は考えています。

 私は「時間にストイックになる」ということが、幸せな人生を生き抜いていく上で大切だと考えておりますが、それは銅貨を、銀貨を、金貨を大切に扱うということであり、そして時間という貨幣を費やして、「パン」という名の生活の糧のみならず、「悟り」という名の心の糧を積み重ねていくことが、何よりも重要であると、そう考えている者の一人です。

 見知らぬ友よ、私ごとき未熟者で、言葉足らずの者の言葉が、参考になることなどありえないが、しかしもしも何か参考になることがあれば、どうか参考にして頂きたい。