海老蔵の嘘とチベットの真実 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

カナダ在住の中国人の若者は、「チベットは過去、現在、そして未来永劫、中国の領土だ」と、インターネット上で主張しました。

 そしてその主張に、多くの中国人が賛同しました。

 しかし第二次世界大戦後に、中国がチベットに侵攻して、チベットが中国に占領されて以来、少なく見積っても129万人のチベット人が虐殺されるばかりか、それらをはるかに上回るチベットの方々が、わたくし達人間にとって、最も大切な財産を、中国共産党によって奪わてきたのです。

 それは「自由」です。

 「自由」を奪われて、幸せな人生を生きらる人がいるでしょうか。

 「自由」を失って、不幸せにならない人がいるでしょうか。

 いや、いるはずもありません。

 なぜなら「自由」こそ、わたくし達人間の幸せの第一条件であり、自由の無い、そう、まるで首に鎖を繋がれた、動物のような人生であっては、人間が幸せに生きていくこなど、できるわけもないからです。

 ここで、あえて日本の軟弱で、しかも「報道の大切さ」というものを、微塵(みじん)も分かっていない日本のマスコミに代わって、わたくし与国秀行が、チベットで行われている中国政府の悪行、悪魔の行為について、報道したいと思います。

 よいですか、日本の皆さまがた、これから語ることは、隣の国で現実に起きていることです。

 わたくしは、ただ現在起きていることを、『中国が隠し続けるチベットの真実』という書籍をもとに、語るだけなのです。

 そして、中国は東アジアの覇権を目指しておりますから、真実を知らされていない、多くの日本国民の皆さまがたには、なかなか信じられないかもしれませんか、これからわたくし達日本人に起こりうるかもしれない出来事を、私はただ語るだけなのです。

 チベットという国は、ダライ・ラマを法王として仏教が盛んな土地でした。

 この土地に中国が侵略した時、彼らは最初、「信仰の自由を認める」と約束しました。

 しかしやがて彼ら中国政府は、本性を表して、「ダライ・ラマを信望している者は、脳ミソが緑である」と言い出し始めまたのです。

 そして1965年までに、90%の僧侶が強制的に還俗(出家をやめて、僧侶をやめること)させられ、5万人の僧侶が強制収容所に送られました。

 7000あった寺院や神殿も、次々に破壊されて僅か数箇所にまで減り、貴重な仏具は闇で売買されて、売れない仏具は溶かされ、銃弾の玉にされてしまいました。

 今のチベットでは、ダライ・ラマの写真を持っているだけで犯罪です。

 約1000名の僧侶が公開処刑された時、中国政府は、あえて仏像を重石(おもいし)に使って僧侶の首を絞めました。

 それはチベット僧侶にとって、耐え難い苦痛であったことでしょう。

 「奇跡を起こせるものなら皆の前で飛んでみろ」と、そう言われて高い崖から蹴落とされて、殺された僧侶もいました。

 「自分を救えぬ者に、他人を救えるはずがないではないか」と言われ、為す術(すべ)なく殺されていった僧侶もたくさんいました。

 ある僧侶は、中国兵に対して、無慈悲な虐殺を止めるように哀願したのですが、すると中国兵は、その僧侶の腕を切り落として、「仏がいるなら、失われた腕を元通りにしてくれるはずだ」と、言って殺したといいます。

 僧侶を生きたまま焼き殺すことなど当然で、生きたまま生体解剖された僧侶さえいる、という証言もあります。

 中国政府は、「宗教なんてアヘンであって、信じる意味など無いものだ」ということを、人々に見せ付けるために、あえて人々から尊敬されている、僧侶たちの無様な姿を曝(さら)したのです。

 もちろん中国政府はチベットにおいて、宗教を弾圧するだけでは飽きたりず、知識層や富裕層の大量虐殺をも、積極的に行ってきました。

 なぜなら同じマルクス主義国家であるカンボジアのポル・ポト政権も同様なのですが、共産主義体制に歯向かう知識層と富裕層こそ、マルクス主義国家にとって、最大の敵であるからです。

 というよりも、大量虐殺によって骸骨の山を築いて、世界中を驚かせたポル・ポト政権がお手本にしたのは、他でもないこの中国政府だったのです。

 あるいは中国政府は、チベット人に対する民族絶滅を企んでいるために、「人口抑圧隊」なるものを組織しました。

 そしてその組織を使って、チベット人が増えず、そして減っていくように、チベット人女性に対する強制中絶手術や強制避妊手術が、こうしている今も行われています。

 1989年のワシントンポストには、次のような目撃証言が掲載されました。

「人口抑圧隊は僧院の隣にテントを設営した。

 そして人口抑圧隊は、『すべてのチベット人女性は中絶手術と避妊手術を受けるためにテントに出頭するように。もしも出頭しなければ、重大な結果を招くであろう』との連絡を、村人たちに告げた。

 拒絶した女性たちは、強制的にテントに連行され、避妊手術、中絶手術を施されたが、術後の処置はまったく受けられなかった。

 妊娠数ヶ月になる女性たちは、胎児を摘出され、たくさんの女の子たちが泣いていた。

 テントの横には胎児が積み上げられて、異臭を放っていた」

 マルクス主義国家というのは、「人間を物質の塊」と見なす考え方を持っているために、心や魂が宿っている私たち人間を、まるで「物」のように扱えてしまうのです。

 そのために彼らからすれば、胎児を山のように積み上げることも、なんら罪悪感が沸かないことすらあるのです。

 ある女性は、病院に呼び出され、腕から採血され、生殖器の検査をされました。

 そして彼女は、イスに身体を縛られて、空気袋のようなものを、生殖器から体内に挿入されたそうです。

 その空気袋のようなものが、体内で膨らんで、そして取り出されると、肉片が一緒になって出てきた、と言います。

 彼女はその後、十七歳の若さにして生理が完全に止まってしまい、性的感情も一切無くなってしまったといいます。

 民族絶滅を狙う中国政府は、こうした生殖機能を奪う非人道的な手術を、何も女性たちだけに行っているのではありません。

 つまり当然のことながら、男性にも非人道的な手術を行っているわけです。

 ある村の男性たちは、医師から「頭を良くし、背を高くし、身体を丈夫にする手術を行う」と言われて、「命令に背いた者は殺す」と言われました。

 そして多くの男性たちが、中国政府によって生殖器に手術を受けたのですが、ある28歳の男性は性的感情が一切無くなり、頭がボンヤリとして、自分の家と他人の家を間違えてしまうまでボケてしまいました。

 その友人は、手術の五ヵ月後に亡くなったといいます。

 民族絶滅の恐怖の刃は、何も大人だけに向けられているのではなく、幼い子どもたちにも、向けられています。

 なぜならチベットの子どもたちは、中国政府によって、人身売買の対象となっている可能性が、確かにあるからです。

 とある村の十四歳の少年は、「中国で教育を受けさせるから」との理由で、商人に連れ去られてしまいました。

 両親がその商人に抗議すると、彼らは警察に呼び出されて、「それ以上、文句を言うならば逮捕する」と脅されたそうです。

 この村では、十四歳から十八歳までの54人の少年少女が、確かに「子ども狩り」の対象となってしまい、そして「人身売買」の対象となってしまった可能性があります。

 なぜなら子どもが連れ去られた時、商人たちは「一年で戻る」と言っていたというのに、結局、数年経っても子どもたちは戻ってこないからです。

 連れ去られた少年は、両親に手紙を宛てて、その手紙の中で彼は、「教育など一切受けておらず、冬は港で、夏は荒野で、重労働をさせられている」と書いていました。

 宗教弾圧、民族絶滅に加えて、中国政府がチベット人に行っていること、それはやはり暴力による自由の抑圧です。

 拷問は、国連によって禁止しています。

 そして国連は、拷問の定義として、「肉体的、精神的に大きな苦痛を伴う行為が、意図的に個人に与えられること」としています。

 しかし国連常任理事国の中国は、チベット人に対して拷問を繰り返しています。

 彼ら中国政府が、拷問の時に最もよく使う道具、それは「電気棒」です。

 「電気棒」、これは別名「牛追い棒」とも呼ばれるそうで、本来は家畜などの大きな動物を追い立てる時に使用する道具なのだそうですが、しかし彼ら中国政府は、この「電気棒」を好んで人間に使用するそうです。

 ある女性はこのように証言します。

「警官が職場に来て、私は警察に連行されました。

 取調室には分厚い本が置かれていて、その中には私の罪状が書かれていると、警察は言っていましたが、しかし彼らが実際に、その本を開けることはありませんでした。

 私が『何も悪いことをしていない』と、彼らに訴えると、婦警が私を別室に連れていき、そこで私は胸を蹴られました。

 そして婦警は、電気棒を私の口に押し込んだのです。

 すると次の瞬間、口が爆発したかのように感じ、私は気絶しました」

 電気棒を口の中に入れて電流を流すと、舌が腫れ上がったり、歯が吹き飛ぶそうですが、何よりも最も恐ろしい使われ方は、尼僧(女性の僧侶)を含む女性に対して、性器に挿入する使われ方、あるいは男性の場合は、肛門に突っ込んで電気を流す使われ方です。

 イギリスのテレビ局、「チャンネル4」がチベットで密かに撮影したドキュメンタリー番組では、十一人のチベット人男女が証言し、その全ての方々が、「電気棒で殴りつけられた」と語りました。

 ある尼僧は顔を隠して、涙ながらにこう言います。

「彼ら(中国兵)は、私に手錠をかけて、警察署に連行し、地面に押し倒しました。

 さらに私の顔を地面に押し付けて、電気棒で殴りつけ、さらに私の胸を蹴飛ばしました。

 そして彼らは私を全裸にして、三人か四人が、私を電気棒で強姦しました」

 さらに別の尼僧が言います。

「私たちは続けざまに、七人か八人の中国兵に強姦されました。

 私たちは丸裸でした」

 男性とも距離を取り、性行為とは無縁で生きて、心清く仏道修行に励んでいる女性たちを性的に蹂躙(じゅりん)する、まさしく人間として許すまじき非人道的行為ですが、こうした残虐性を秘めた中国の脅威が、今、私たちの国にも、月日を追うごとに一歩、また一歩と、着実に迫っていることを、私たち日本人はよく肝に銘じておくべきでしょう。

 なぜなら、この国を中国の脅威から救っていくのは、わたくし達日本人に他ならないからです。

 我々日本の男たちが、このまま眠り続けていたら、この国を護り抜いていくことなど、できるわけもないからです。

 今、この国に必要で、そして求められているのは、男です。

 「男子としての使命」を忘れない、そんな当たり前の本物の男たちが、この国には欲しいのです。

 (「男の使命」については、過去の記事である『男は本当につらいよ』をごらん下さい)

 ごく稀(まれ)に、いや本当に稀に、「与国さんのブログ、読んでいます。そして私は与国さんのファンです」と、言って下さる方がいらっしゃいます。

 おそらくそれは、私ごときにファンなどというものがいるわけもございませぬから、社交辞令も大分あるでしょうが、しかし中には本当に、この日本の国難に気がつき、私のこのブログを応援し、そして『日本最大の国難』のブログを広めることを応援して下さっている方も、一人、二人はいらっしゃるのかもしれません。

 応援して下さることは、素直に喜ぶべきでしょうが、しかし私はこの「ファン」というもに対して、いつも何か違和感を感じている者であります。

 一概に言うことはできませんが、そうした直接、「応援しています」と言って下さる方に共通していることは、「朴訥(ぼくとつ)である」ということです。

 「朴訥」とは、派手な一面があまりなく、真面目で飾り気がなく、どちらかと言えば口数も少ないような人柄のことです。

 ですからそうした「応援しています」と言って下さる方と、長々と話したことが無いので、詳しい人格までは分かりかねますが、「朴訥であっても剛毅(ごうき)な方は少ない」、というのが、一つの私の印象です。

 おそらく剛毅な人物というのは、「他人から学ぼう」とか、あるいは私は未だ34歳でありますから、「若造から何かを得よう」という心が無く、「学ぶならば独学で学びたい」というプライドが高いのかもしれません。

 しかし昔より言います。

 「剛毅木訥は仁に近し」と。

 朴訥であって、それでもなおかつ剛毅であればこそ、その者は仁者に近いのです。

 仁とは、他人に対する思いやりがあり、礼儀礼節をわきまえて、天下国家に尽くす心です。

 ならば私は思うのであります。



 朴訥なる者、剛毅を求めようではないか、と。

 剛毅なる者、朴訥を求めようではないか、と。

 剛毅朴訥なる者、仁者に近し、と昔から云うのだから。

 仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は恐れず、と言う。

 ならば仁者は知と勇を求め、知者は仁と勇を求め、勇者は仁と知を求めようではないか。

 智、仁、勇の三者(みつもの)は、天下の達徳なりと言うように、我らは徳を共に求め、互いに切磋琢磨しようではないか。

 かつて中国の蜀の国に、劉備という方がおられ、その彼の配下には、知に優れた孔明という軍師、武に優れた関羽という将軍がいたが、劉備は知においても、武においても、この二人の「才能」に劣っていた。

 しかし劉備は「才」で劣ろうとも、ある一つのものが優れていた。

 それは「徳」である。

 古来より描かれる龍は、その手に宝石のような宝を握り締めているが、真の宝とは徳であり、徳こそ才を集め、知や武に勝るものである。

 ならば我ら日本男児は、徳こそを求めて、互いに切磋琢磨していこうではないか。

 この国は今、当たり前の本物の男を求めているのだから。

 酒に酔いしれ、女と戯れ、営利を貪り、快楽を追求するうちに、男の使命を忘れてしまう手弱女のような男ではなく、何があろうとも男子としての本懐を忘れぬ、そんな豪傑猛者を求めているのだから。

 私の言う豪傑猛者とは、決してかつてアウトローだった者たちのことではなく、また、今こうしている現在、アウトローとして生きている者たちのことでもない。

 あるいは肉体的な強さについてなど、私は気にも止めていない。

 私の語るところの豪傑猛者、それはまぎれもなく国を護り、時代を進めるという男子としての使命を決して忘れることなく、そして少しでも徳を得ようと学びに学びを積み重ねて生きていく、そんな当たり前の男のことである。

 「ブログ読んでいます」という言葉は、嬉しくもあり、そして恐ろしくもある。

 孔子も言っている。

「後生(こうせい)畏(おそ)るべし。
 焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや」と。

 つまりこれは、「彼らには優秀になる可能性があるのだから、若者たちを侮ってはならない」という意味だが、切磋琢磨するライバルは世界中のいたるところにいる。

 互いに中国の脅威を知り、男としての使命、男子としての本懐を忘れることなく、そして徳を求めて切磋琢磨していこう。

 それこそ、今、この国に生きる男たちの生き方であると、私はそのように思う。

 なぜなら中国の覇権主義が迫っているなかで、我々日本男児が、優しく、勇ましく、正しくなって、益荒男とならなければ、この国難を打破することなどできないからだ。

 それと、ついでに言えば、海老蔵は記者会見を開いたが、あの会見の中で見せた彼の謙虚で反省した姿は評価に値するが、しかし私も杉並出身で、かつて東京で派手に暴れまわっていた者として言えば、彼はおそらく嘘をついた。

 謙虚な姿と反省した姿で、マスコミ及び日本国民を騙し通すつもりだろうが、元暴走族のリーダーで、六本木や西麻布で遊んでいる者たちは、歌舞伎役者と初対面ではいきなり飲まない。

 東京という街は、暴力と金と権力がイコールで結ばれている街で、これらが横の繋がりがある街だから、知人のモデルや芸能人などの芸能関係者を通して、元暴走族のリーダーは、海老蔵を紹介されてすでに知っていたのだろう。

 そして事件の晩、その元暴走族のリーダーは、年下として、あるいは人生の先輩と後輩として、礼儀正しく海老蔵に対して接していたのだが、あまりにも海老蔵の酒の飲み方がひどく、人としての一線を越えてしまっていたために、ああした事件に発展したのだろう。

 六本木界隈では、ヤクザと芸能人が一緒に酒を飲むことなどよくあるが、「長幼(ちょうよう)の礼」が重んじられているために、たとえ元暴走族と云えども、歌舞伎役者に最初から失礼な態度など取ることはまずない。

 なぜなら私もかつて、六本木で飲んでいたころ、芸能人やモデルなどと酒をともにすることがあったが、必ず「長幼の礼」は守っていたからである。

 まぁ海老蔵の嘘など、本当はどうでもよく、知って頂きたいことはチベットの真実であることは、言うまでもない。

 もしも、いまだこの国難について気ついていないのならば、どこか↓このブログをごらんになってください。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/