日本の男たちが、
男に関する価値観を変えなければ、
この国を中国の侵略から
護り抜いていくことはできないし、
そして日本の女性たちも、
男に関する価値観を変えなければ、
やはりこの国難を打破することはできない。
我々日本国民は、
もういい加減、
ホストのような、
あるいはジゴロのような、
そんな女性を言葉巧みに騙して、
金をかっさらっていくゲスな男や、
もしくは男だか、女だか、
それが分からない生き方をしているような、
そういった軟弱な男と、
男子としての本懐を忘れることなく、
天下国家のために立ち上がる男との、
見極めができなければいけない。
つまり「男らしさ」
ということについて、
日本国民は今こそ学びなおすべきだ。
ならば私が、
「男らしいとは優しいことである」
あるいは、
「優しい男こそ男らしい男である」
そのことを言葉と理論でもって、
証明してご覧に入れよう。
もう、何度も、何度も、
述べているように、
男には男としての使命がある。
あえて、あえて、
それをもう一度言う。
たとえば、
もしも泥棒が家に入ってきたら、
誰が真っ先に立ち向かうべきだろうか?
まぁ、今という時代ならば、
セキュリティシステムが発達しているために、
家のどこかに身を潜めていれば、
警備員が駆けつけてくれるだろうから、
「軽率な行動は慎んだほうが安全」、
ということもあるが、
仮にセキュリティシステムが
整っていなかったとして、
誰が泥棒に飛び掛るべきだろうか?
それはやはり父親、
あるいは長男が身の危険をかえりみずに、
家族を守ることが義務と言えるだろう。
このように、
「やはり男にはやらなければならないことがある」
と、そう言えるわけだ。
言葉を変えれば、
「男子は家を出ずれば七人の敵あり」
などと言われているように、
「男とは戦わなければならない生き物である」
とも言えるだろう。
もちろん
「仕事をして家族を養う」、
ということもそうであろうし、
「父親として子を育てる」、
ということもそうであろう。
しかしそうした「個人的な使命」、
「個の使命」だけではなく、
「天下国家に対する使命」、
「公の使命」というものが、
やはり我々男どもにはある。
それは国を護り、
時代を進めていく、
という「使命」だ。
ではもしも仮に、
世に生きる全ての男たちが、
この「公の使命」を忘れて、
国に対して全くの無関心になり、
時代にも無頓着で、
自分が持てる力を、
全て富を稼ぎ出すことや、
位人臣を極めること、
あるいは酒や女や娯楽に使っていたら、
果たして誰が国を護り、
誰が時代を進めていくというのだろか。
女性だろうか?
確かに世の女性たちの中にも、
勇ましい方はおられる。
あるいは女性らしくつつましやかでありながら、
それでも国を護り、時代を進ませる、
という仕事に向いている方も、
たくさんいらっしゃることだろう。
だからそれはそれで、
当然のことながら素晴らしいことだ。
私はそうした勇ましい女性、
あるいは女豪傑、
もしくは女性でありながらも、
男たちの中に混じって世に立つ人を尊敬する。
ではもしも仮に、
世の女性たちが、
国を護り、時代を進ませる、
という公の仕事に励んだら、
今度は果たして誰が家を守り、
誰が子供を育むというのだろうか。
男たちがスカートをはいて、
エプロンをつけて、
家事と育児に専心するとでもいうのだろうか。
女性たちが、
坂本竜馬のように、
刀でブッダ切られるかもしれない
危険を覚悟で、
国を護り、
時代を進ませようとしているというのに、
世の男たちは、
ただ指をくわえて、
それをゴルフやカラオケでもしながら、
遊んで見ているとでも言うのだろうか。
それとも女性たちが、
吉田松陰のように
首を刎(は)ねられるような、
命を落とす覚悟で、
天下国家のために生きているというのに、
世の男たちは天下国家のことを何も考えず、
エプロン姿で家事と育児をしながら、
妻の帰りをじっと家で
待っているとでも言うのだろうか。
もちろん男も家を守り、
子供を育むべきであり、
女性も国を護り、
時代を進めるべきであり、
「人」という漢字が互いに支えあって
一つの漢字になっているように、
妻と夫、あるいは男と女は
互いに協力し合い、
互いに支え合うべき存在と言えるだろう。
しかし、
これは一概に言い切ることはできないし、
男女に優劣の差などあるわけもないが、
しかし私が仏陀から教わったように、
やはり男女には、
肉体にも違いがあるように、
魂の傾向性にも違いがある。
つまり全体的に見て
男女の心の傾向性は、
男性の方が
国家と時代に対して向いているし、
そして女性の方が
家庭と子供に対して向いている
と言えるわけだ。
そして国家、時代、家庭、育児、
これらを男女が
互いに協力していくことによって、
世界には大いなる平和が
もたらされていくのではないだろうか。
男が家族を守り、
家族を養うという「個の使命」と共に、
国を護り、時代を進めるという
「公の使命」をも果たし、
そしてその時、
その妻は家庭を守り、
子どもを育てながら、
夫を影で支えることによって、
女性は「個と公の両使命」を果たしている、
とそう言えるだろう。
すなわち我々男には、
やらねばならないことがたくさんあり、
そして我々男とは、
その重責や苦しさに
時に嘆きたくなることもあるが、
しかし我々男とは、
決して人前で愚痴を述べたり、
嘆くことは許されず、
ましてや人前で涙など見せられぬ、
そんなつらい生き物であり、
我々男とは、
何とも損な戦う生き物なわけである
「男らしさ」
それは個の使命と共に、
公の使命を果たそうとする男である。
つまりは、
個と公の両使命を忘れることなく、
男子の本懐を遂げんと努力する者こそ、
男らいし男であると、
そう言えるだろう。
ちなみにこの「男子の本懐」という言葉は、
昭和五年の東京駅において、
当時の浜口雄幸(おさち)首相が、
狙撃された際に
口にした言葉でもある。
では「国家」とは、
そして「時代」とは、
果たして如何(いか)なるものであるのか。
まず国について、
私の考えを述べたいと思う。
国が無ければ、人は生きてはいけない。
だから国とは人生の土台である。
独裁国に生まれてしまった方々、
紛争国に生まれてしまった方々、
貧困国に生まれてしまった方々、
こうした方々の人生をご覧になれば、
誰もが「日本に生まれて良かった」と、
そう思うのではないだろうか。
まぁ日本に生きる多くの人々が、
「日本に生まれた幸せ」
というものを知らないようだが、
日本という国に生まれたことは、
実は世界の方々からすれば、
とても恵まれていることなのだ。
だからよくよく考えてみればみるほど、
「国は人生の土台であり、
国が異なれば人生が異なる」
という真実が明らかになってくる。
北朝鮮では、
権力者は贅沢を極めている一方で、
何も知らない国民は餓死寸前の状態だ。
そのために、
栄養失調によって白内障にかかり、
失明してしまう人の数は
他の国の10倍だが、
しかしそれでも失明した老婆は、
カメラを向けられるとこう言う。
「目が見えなくて一番辛いことは、
将軍様のお写真が見られないことだ」
あるいは、タイのパッポン通りで
売春を生業にしているある少女は、こう言った。
「十代で大人の仲間入り、
二十歳で年増、三十で人生はおしまい」
また、アフリカの紛争地帯で、
子どもたちに銃を持たせて
戦わせている大人はこう言った。
「子供兵ほど勇敢な兵士はいない。
彼らはまだ『死』の意味さえ
まだよく理解していないから、
銃弾が飛び交う最前線にも突き進んで行くし、
『人殺し』というものを、
まるでゲームを楽しむかのように行う」
もちろん我々が
赤き血のかよった人間である以上、
そして日本が豊かな先進国である以上、
我々日本人と、
そして日本という国家には、
独裁国や紛争国や貧困国に対して、
またそれらの国々で生きる方々に対して、
果たすべき使命が当然ある。
人間としての使命と、
国家としての使命が、
我々にはまぎれもなくある。
しかしどんなに我々日本人が、
いつの日か世界が一つになり、
世界が平和になるこを願おうとも、
やはり現在はまだ、
「国は人生の土台であり、
国が異なれば人生が異なる」
という真実は変えられない。
なぜなら、
「国」というこの文字が、
「玉」という文字を
□(四角)で囲んでいるように、
そして「玉」とは「宝物」を意味するように、
国とは
「国境によって、
他国と自国を遮り、そして守る一つの囲い」
でもあるからだ。
確かに、宇宙から見れば、
「国境」などという線は
一本も引かれておらず、
そして「国境」というものは、
時代によって移り変わるものであるから、
地球から全ての「国境」が消滅して、
世界が一つになることを望む人も
きっと多いことだろう。
それに確かにこの日本でも、
江戸時代には藩ごとに「国境」があり、
「藩が異なれば人生が異なる」
という状態であったが、
しかし今ではもうその国境は存在していない。
あるいは西ドイツと東ドイツを分けていた
「国境」ももう存在していないし、
最近では、「ヨーロッパ」そのものが、
少しずつ国境になりつつあるようだ。
このように、
確かに「国境」は
時代によって移り変わるものだが、
しかし未だに東アジアの経済レベルには、
国ごとに大きな差があり、
そして中国と北朝鮮が、
未だに軍事独裁国家であり、
しかも中国が東アジアの制覇を目論む以上、
この日本や中国や北朝鮮がある東アジアは、
まだそこまで時代が進んでいない。
つまりもしも今、
日本、韓国、中国、北朝鮮、台湾などがある、
この東アジアにおいて、
国境が取り除かれてしまったら、
苦しみを受けるのは、
我々日本国民に他ならないわけだ。
「全ての武器を廃棄しよう。
国境を取り除いて、世界を一つにしよう。
皆で世界から争いと飢えをなくして、
地球に平和な時代をもたらし、
地球市民になろう」
と、「理想」を掲げることは大切だが、
しかし「現実」を見なければ、
多くの人間が逆に不幸せになり、
かえって世界は平和から遠のいていく。
理想だけを掲げて、
現実に対する勉強不足な者が、
いかに日本には多いことだろうか。
だから、やはり
「国が異なれば人生が異なり、
国は人生の土台である」
ということは、
現代の否定できない真実である。
あえてもう一度言うが、
国家とは、人生の土台であり、
そして国境によって
他国と自国を遮り、
そして守る一つの囲いである。
男が果たすべき使命の一つであり、
護るべき存在である
「国家」というものについて、
簡単に述べさせて頂いたが、
ではもう一つの使命であり、
進めるべき存在である
「時代」とは果たして何か。
やはり国家と同様に、
「時代が異なれば人生が異なり、
そして幸福が異なる」
という事実は見逃せない。
たとえばこの日本においても、
現代に比べれば遥かにつまらぬ時代があった。
かつて日本には
「藩」と呼ばれる個々の国が立ち並び、
「士農工商」と呼ばれる身分制度があった。
武士が一番偉くて、
百姓町人は
たとえ自分の家で飼っている馬であろうとも
乗ることは許されなかった。
身分低い人々は
縁もゆかりも無い武士に対してでも、
身を低くして頭を下げ、
道で会えば道を譲り、
店で会えば席を譲らなければならなかった。
日本国内を自由に移動することさえ、
かつての日本人は
許されていなかったのだ。
身分低く生まれた者は
必死に努力しても、
その努力が報われることは少なく、
貧しく苦しい生活を
強いられることもあったが、
しかしその一方で、
身分高く生まれた者は
大した努力をしなくても、
豊かな生活を過ごして、
遊んで暮らすことさえできた。
たまたま生まれついた家の身分が高ければ、
その身分にあぐらをかいて贅沢をし、
そうした有象無象の者たちが
権力を握って、日本を腐らせていた。
しかも百姓町人の下には、
「えた・ひにん」と呼ばれる、
さらに身分の低い方々も存在していた。
彼等は身分が低いどころか、
「人権」というものさえ
ほとんど与えられておらず、
決められた場所に住まなければならないとか、
雨が降っても傘は使ってはならないとか、
ワラジか裸足で歩かなければならないとか、
百姓町人と話をする時は
土下座しなければならないとか、
愚かしくも下らない
自由を束縛する規制が、
同じ人間であるにも関わらずたくさんあった。
この日本においても、
僅か百数十年前には
そんな暗黒の時代があったのだ。
そんな不平等で不自由な、
面白くない時代であるならば、
人間一人一人が持つ
才能や努力などが発揮し切れないのだから、
国が栄えるはずもない。
そんな時代に欧米諸国は
日本を侵略しにやってきたのであり、
日本が隣の中国や
あるいはインドのように、
欧米列強に植民地にされてしまうことなど、
もう誰の目に見えていた。
そんなつまらぬ時代を打破して、
外国から日本を護るために
立ち上がった方々が維新志士たちである。
またさらに時代を遡ると、
血を血で洗う群雄割拠の戦国時代である。
戦に次ぐ戦の繰り返しで、
人々は常に「死」というものと隣り合わせで、
「死」を覚悟し、
「死」を意識しながら
生きていかねばならなかった。
男たちは、
心の底から安らぐことなど
容易なことではなかったのだ。
一家を支える父が戦で討たれ、
尊敬する兄が戦で命を落とし、
昨日まで隣で笑っていた弟も戦で倒れ、
最愛の人さえも戦によって失う、
そんなことが当たり前の時代、
それが戦国時代である。
そうした戦国乱世の時代を鎮め、
戦の無い時代を築いたのが、
信長、秀吉、家康といった天下人であり、
あるいは武田信玄や上杉謙信といった
勇猛な武将であり、
そして彼らを支えた武士(もののふ)たちであった。
また現代でも、
貧しい後進国に行くと、
「人間が売られていく」
ということなどゴロゴロあるが、
この日本でも、
「口減らし」や「身売り」は
当たり前の時代があった。
すなわち
国家が人生の土台であるのに対して、
時代とは
その国家を形造っていく存在である。
時代が進歩すれば、
国という名の人生の土台が、
より素晴らしいものへと進歩して、
より多くの人々が幸福になることができる。
この東アジアも
時代が進歩を遂げれば、
つまりは中国や北朝鮮が軍事独裁国家でなくなり、
東アジアの国々の経済レベルが同等なものに達し、
そして民族や文化の違いの壁を
アジアの人々が打ち破ることができれば、
いつの日か東アジアそのものが、
一つの国のような存在となり、
アジアそのものが、
人生の土台となる日も来るであろうし、
さらに時代が進歩を遂げていけば、
地球が一つになり、
地球そのものが国のような存在となり、
人生の土台となりうる日も来るかもしれない。
その一方で、
もしも逆に、
この「時代」というものが、
停滞していたり、
もしくは時代が
後退するようなことになってしまえば、
国家という人生の土台も劣悪なものとなり、
容易には人間が幸せにはなれない
ということも
十分にありえるわけだ。
つまり時代こそ、
国家という人生の土台を進歩させたり、
停滞させたり、後退させて、
形造る存在に他ならないわけだ。
そして国家が人生の土台であり、
時代が国家を形造っている以上、
国家を護り、
時代を進歩させようと
努力するということは、
その国で生きている人々を愛し、
平和を愛していることにも等しい。
つまり、
「男には国家や時代に対して
公の使命がある」
ということを述べさせて頂いたが、
「男が天下国家のために力を尽くし、
公の使命を果たす」
ということは、
妻を愛することであり、
子を愛することであり、
同時代に生きる人々を愛することであり、
これから生まれてくる赤ん坊を、
そしてこれまで
この国を築き上げてきた先人たちを愛し、
さらには平和を愛することにも等しい。
この日本の中にも、
世界平和を実現させるために、
日々、努力されている方もいるだろう。
いわゆる「サヨク」と呼ばれている人々である。
しかし本当に平和を求めるならば、
北朝鮮、中国共産党に目を向け、
そしてこの東アジアが今、
どれほど危険な地域であるか、
その事実を知ってから行動を起こすべきである。
「サヨク」と呼ばれる方に私は言う。
もし東アジアの真実の姿を知ったのならば、
そしてアメリカや中国が作り上げた
偽物の世界史ではなく、
真実の世界史を知ったのならば、
さらには
「国が人生の土台である」
という事実を見つめたのならば、
貴方がたは日本の素晴らしさを知り、
日本に生まれたことを感謝し、
そしてこの日本を
中国・北朝鮮から護り抜こうと、
保守化し、右傾化することだろう。
愛国心というものは、
決して暴力的で、
軍国主義的なものではない。
世界平和に通じていく、
愛に溢れた正しい愛国心、
というものもある。
世界平和に通じる正しい愛国心、
それは人間に対する深い愛情から
自然と生まれてくる愛国心に他ならず、
そしてその国の歴史と伝統と文化を愛しながらも、
他の諸外国に対する
礼と敬いの精神礼を忘れない愛国心である。
その一方で、
やはり間違った愛国心というものもある。
一部の右翼の人々の中には、
こうした間違った愛国心を
持っている者もいるようだ。
それは自分の国を愛し過ぎるあまり、
外国の文化や歴史、
そして人々を蔑み、
礼と敬いの精神を忘れ去るばかりか、
世界平和を微塵も考えていない愛国心であり、
そして何よりも、
人間を愛することのない国への執着心である。
こうした人間を愛することなく、
他国を蔑み、
自分の国が利益を得られて、
自分たちが繁栄できれば、
「あとのことは構わない」、
という間違った愛国心が、
戦争、侵略を生み出すのだろう。
正しい愛国心、
それは人間を愛し、
時代を見極めることから、
自然と生まれてくる
優しき心に他ならない。
このように愛国心というものにも、
正しいものと間違ったものがあり、
そして間違った愛国心は、
戦争や侵略を生み出してしまうが、
しかし見せ掛けの平和な時代において、
愛国心が無ければ
国を護(まも)っていくことは
できないのだから、
今こそ我々日本国民、
とくに日本男児たちは、
「愛国心」というものに対する考え方を改めて、
正しい愛国心のみを持つべきである。
そして正しい愛国心というものが、
人間を愛するものであり、
世界の平和を愛するものである以上、
公の使命を忘れることなく、
天下国家に命を燃やす男とは、
人を愛し、
平和を求める優しい男に他ならない。
国家に、
そして時代に
尽くそうとする者は、
愛ある者であり、
平和を願う者であり、
優しい人に他ならない。
そして「男らしい男」とは、
個の使命と共に
公の使命を忘れることなく、
男子の本懐を遂ようとする
男のことであるから、
「男らしい」ということは、
「優しい」ということに他ならないわけだ。
最後に、あえてもう一度言う。
日本の男たちも、
男に関する価値観を変えなければ、
この国を中国の侵略から
護り抜いていくことはできないし、
そして日本の女性たちも、
男に関する価値観を変えなければ、
やはりこの国難を打破することはできない。
我々日本国民は、
もういい加減、
いや一刻も早く、
ホストのような、
あるいはジゴロのような、
そんな女性を言葉巧みに騙して、
金をかっさらっていくゲスな野郎や、
もしくは男だか、女だか、
それが分からない生き方をしているような、
そういった軟弱なカマ野郎と、
男子としての本懐を忘れることなく、
天下国家のために立ち上がる男との、
見極めができなければいけない。
「手弱女(たおやめ)」とか、
「益荒男(ますらお)」とか、
こうした言葉はすでに死後であるが、
日本国民は
「手弱女」と「益荒男」の違いを見極め、
この二つの言葉を、
今こそ生き返らせるべきだ。
なぜなら日本は、
今、国難を迎えているからである。
そして、
男らしいは優しいことだと知って欲しい。
(↑この歌、よくカラオケで歌うな)
さてさて、どうやら今日、
幼馴染みが格闘技の試合に出るらしいから、
ちょいとばかし、
見学に行ってくるかね。
しかし俺の持論は、
「友はワインでもなければ米でもない」
ってことだ。
友は古ければ良いってわけではなく、
新しいから良いってわけでもなく、
「気が合い、心から分かり合える」
これが友にとっての最大条件だと、
俺は思う。
論語にもある。
「子(し)曰く、学んで時に之(これ)を習う。
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり遠方より来(きた)る、亦楽しからずや。
人知らず、而(しかう)して慍(いか)らず、亦君子ならずや」
と。
つまり、
知らないことを学んで、それを復習する。
すると今まで分からなかったことが
理解できるようになる。
それは喜ばしいことである。
友がいて遠路はるばる訪ねてくれる、
これもまたうれしいことである。
人が自分のことを知らなくても、
全く気にならない。
そのような人こそ君子というものである。
ここに友情の秘訣があると、私は思う。
もしもこの記事を読まれた方で、
今ある日本の国難を知らぬのならば、
どうか↓下のブログを読んで頂きたい。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/
あ~あ♪夢よ良き友よ♪
時の流れを恨むじゃないぞ♪
男らしいは優しいことだと♪
言ってくれ~♪