「格闘技」と「武道」、
これは同一のものか、
それとも相違のものなのか、
そんなことを考えたことがあるだろうか?
ある者は「同一」と考え、
ある者は「相違」と考えるだろう。
ならば私も、
哲学や思想、そして真理を学ぶ一人として、
私なりの考えを披露したい。
なぜなら
たとえ「奇人」」や「変人」と、
人々から笑われようとも、
「新しい価値観」を生み出す、
これに勝る人生の醍醐味など存在せず、
私は生まれてよりのち、
ずっと奇人変人であるのだから。
このブログでも、
何度も、何度も述べているが、
実は「正義」というものは、
「人・時・場」によって、
移り変わっていくものである。
たとえば、
音楽の授業の時に、
生徒が教師の指導のもと、
皆で歌を唄う行為は善だが、
しかし数学の授業をしている時に、
生徒が勝手に歌を唄い始めたら、
それはまぎれもなく悪である。
あるいは結婚式などの祝いの席で、
お酒を口にすることは、
悪にはならないことのほうが多いが、
しかし車で結婚式に来ている者、
もしくはアルコール中毒患者で、
医者からアルコールを止められている者が
お酒を口にすることは、
やはり悪である。
このように、
「歌」でも、「酒」でも、
「正義」というものは
「人と時と場」によって移り変わるために、
たとえ同じ行為であっても、
人によって、
時によって、
場によって、
善にもなり、
そして悪にもあるわけである。
そして、
人と時と場によって
移り変わる正義であるからこそ、
我々人間は、
善悪を見抜いていくことが大切であり、
この善悪を見抜く力のことを、
「悟り」と呼んだり、
「智慧(ちえ)」と呼んだりしているわけだ。
そして知識があって、
勉強ができる人のことを、
「頭が良い」
と表現するのに対して、
たとえ知識はそれほど無くとも、
智慧(ちえ)があって、
善悪を見抜ける人のことを、
「賢い」
と表現すると言えるだろう。
だから知者と賢者は異なるわけだ。
それはすなわち、
有名一流大学を卒業しているような、
知者の中にも、
悟りの乏しい愚者もいるわけだ。
あるいは、
ソクラテスのように、
たとえ知識には乏しくとも、
賢者もいるわけである。
もちろん我々人間は、
神や仏ではないのだから、
常に正義を見抜いて、
常に「正しさ」を選び取っていくことなど、
出来るわけもない。
ならば我々人間は、
正しい判断を下していくために、
智慧を身につける努力を
行っていくべきだろう。
もしもこれを全くおこなわずに、
ただ優しく勇ましく生きたとしても、
その優しさが根本から間違っていては、
他の人々を不幸せにするばかりか、
社会にも多大な迷惑をかけてしまう
こともありえる。
風邪をひいた人に松葉杖を与えることは、
正しい優しさではなく、
骨折した人に風邪薬を与えることも、
正しい優しさではなく、
もちろんどちらも、
確かにそれは優しさかもしれないが、
しかし風邪をひいた人には風邪薬を、
骨折した人には松葉杖を与えることが、
正しい優しさである。
実は2500年の昔、
お釈迦様が悟られたことも、
ここにあった。
お釈迦様は、
滝に打たれたり、
断食したりして、
そうした苦行をしていたが、
しかしやがてお釈迦様は、
苦行を否定された。
その一方で、
快楽に身を任せて生きる人生も、
やはりお釈迦様は否定された。
「苦でもなく、
楽でもなく、
左右両極端を捨て去った、
苦楽中道にこそ
素晴らしい人生がある」
そうお釈迦様は悟られたわけだ。
つまり歌を唄う行為が
善にも悪にもなるように、
一つの物事を、
極端に善と決め付けることはできず、
極端に悪と決め付けることもできず、
両極から離れ去った、
中道にこそ善があり、
悟りによって中道を見抜いていく中に、
真の正義ある、と、
そう言えるわけだ。
だから正義とは中道である。
では、
物事の正義が、
人と時と場によって、
移り変わっていく、
ということを踏まえた上で、
「武力」や「暴力」について考えていけば、
自然と格闘技と武道の違いを
明らかにすることができるだろう。
「力」というものも、
「歌」や「酒」と同様に、
人と時と場によって、
善にも、悪にもなりうるものだ。
たとえば、
人々を殺し、お金を巻き上げていく力、
あるいは
町を破壊し、一瞬にして時代を
原始時代にまで引き戻す破壊の力、
こうした力は、
紛れもなく「暴力」であり、
そして「悪」である。
ではしかし、
その悪なる暴力を、
一体何が止めるというのか?
話し合いだけで、
本当に全ての暴力が止まるだろうか?
確かに
「話し合いで暴力を食い止める」
それは「理想」であり、
平和を願う人間であるならば、
まずは理想を求めて、
話し合いで解決するべきだろう。
しかし「理想」は「理想」であり、
悲しいかな、
「現実」は「理想」とは異なる。
だからこそ、
日々、傷害事件、殺人事件が
起きてしまっているのではないか。
だからこそ、
戦争が未だに続いているのではないか。
平和を愛する正常な人間ならば、
まず理想を求め、
話し合いで解決を求めることが大切だが、
しかし、
現実において、
話し合いで解決がつかない場合、
やはり「暴力を止める力」として、
「武力」というものが必要になるのだ。
「武力」の「武」という漢字一文字が、
「戈(ほこ)を止める」
と書くように、
そして「戈(ほこ)」というのが、
中国の古代の戦争の道具であるように、
暴力を止める力、
それこそが「武力」である。
このように、
「暴力」と「武力」は異なるのだ。
では、
格闘技は武力か?暴力か?
武道は武力だろうか?
これを考えていけば、
「格闘技と武力は、
同一なものか、相違なものか?」
という問の答えが出るであろう。
今、日本は、
中国によって少しずつ、
侵略されていっている。
その日本侵略という破壊の力、
この暴力を止める力こそ、
真の武力である。
それは自衛隊であり、
公安や警察官、
あるいは海上保安庁もそうだろう。
また、
様々な政治活動において、
何としても、
中国の侵略から
日本を護ろうしている人も多いが、
この中国の暴力を止めようとする力、
これこそ武力である。
しかし国を護るべき男たちの中に、
この国難に気づかず、
ただやみくもに
リングの上で戦っている者もいる。
「国を護る」
という方向で発散すべき力を、
そちらに発散することなく、
互いに肉体を
ぶつけ合わしている者たちが、
この日本にはいかに多いことか。
そうしている間にも、
少しずつ少しずつ中国は、
この日本を
チベットやウイグルのようにしようと、
画策と工作を続けているというのに・・・
歌や酒が、
人と時と場によって、
善にも悪にもなりうるように、
「力」も善にも悪にもなりうるのならば、
この日本最大の国難の時に、
国難にいつまでも気づかずに、
国を護る方向に力を使わずに、
格闘技にばかり熱中して
力を使い果たすことは、
やはり悪である。
なぜならダライ・ラマのように、
自分の国を失ってから、
祖国を取り戻そうと、
海外で活動するのでは、
あまりにも、あまりにも遅過ぎるからだ。
平和な時代ならば、
格闘技も良いだろう。
しかし今は平和な時代ではなく、
日本の歴史上、最大の国難を
迎えている時代であり、
もしも「平和な時代」に見えるのならば、
それは真実を知らずに、
平和ボケしているに過ぎないのだ。
それに人間の肉体は、
実はそれほど頑丈には出来ていない。
何度も試合を繰り返してきた格闘技選手が、
晩年、後遺症に苦しんでいる事実を、
我々人間は、
もっともっと知らなければならない。
モハメド・アリは?
佐竹選手は?斉藤清作氏は?三沢選手は?
どうなったのだろうか?
これまで多くの格闘技選手が、
引退して、
あまりスポットライトが当たらなくなってから、
実は言語障害、記憶障害などに、
苦しんでいるのだ。
人は他人の肉体を戦うために
生まれてきたのではない。
また、
他人の肉体と他人の肉体が
殴り合い戦い合う姿を見に、
生まれてきたのでもない。
人は己の心と戦うために、
生まれてきたのだ。
「己心の魔」
と仏教でも言うように、
敵は常に己の心の内にある。
だからこそ、
人は己の心を、
深く、深く、
見つめていくことが大切であり、
そして己の心の中にある
過ちに気がついていくことが大切なのだ。
なぜなら、
人はあまり自分の心を知らないのだから。
そして自分の心を深く深く見つめ、
自分の心の過ちを見つけ出したのならば、
それを悔い改め、
反省することが大切であり、
人はこうして己の心の中にある、
心の過ちを反省し、
心の曇りを取り除くことによって、
本来の自分の正しい心を
少しずつ見つけ出すことができる。
この
「自分の正しい心を見つけ出す」
という行為が大切であり、
これを
「リッシンベン」に「吾」と書いて、
「悟る」というのである。
そして一度、
「悟り」を得た後も、
さらに悟りを追い求めていくこと、
すなわち「悟後の修行」が、
私たち人間の人生を、
より人生を素晴らしいものへとしていくのだ。
なぜなら人生には、
必ず苦しみ悲しみが訪れ、
その苦しみをなぎ倒していくものこそ、
腕力でもなければ、
学力でもなく、
この悟りの力に他ならないからである。
格闘技というものを、
もちろん私は、
決して「完全な悪」とまでは言わない。
しかし、
国難に目を向けることなく、
悟りを一切求めることもなく、
国が滅びそうなこの激動の時代の中で、
格闘技に熱中し続けること、
これはすなわち悪である。
しかしその一方で、
正義の側に立つ者は
常に強くなければならない。
警察はヤクザよりも、
やはり強くなければならない。
もしも山口組よりも、
警視庁が弱かったら、
日本国民は安心して
生活を営めるだろうか?
いや、営めないはずである。
これと同様に、
中国の人民解放軍よりも、
北朝鮮の朝鮮人民軍よりも、
日本の自衛隊、
アメリカの第七艦隊が強くなければ、
我々日本国民は
安心して生活を営むことなどできないのだ。
日本国民の多くが、
「死にたくないから戦争はいやだ」
と、そう思っているだろうし、
そして多くの日本国民が、
「世界中の人が同じように考えている」
と、そう思い込んでいることだろう。
しかし現実はそうではない。
残念ながら世界には、
「自分が死ぬことはないから、戦争も大歓迎だ」
などと、そんなことを思う、
心貧しい者たちが、
まだいるのだ。
北朝鮮のあの将軍様が、
日本や韓国に攻めて来ない
その理由は、
平和を愛しているからでも、
戦争を憎んでいるからでも、
自国民の命を惜しんでいるからでも、
ましてや日本人や韓国人の生活を
考えているからでもない。
北朝鮮が日本や韓国に戦争を仕掛けない
その理由は、
アメリカと同盟を組んでいる
日本や韓国に勝てず、
もしも実際に日本や韓国を攻めたら
北朝鮮が崩壊して、
将軍様自身の生命が危ないからだ。
自分の身内くらいにしか愛が無く、
欲望の虜となっているのが独裁者である。
だからあの将軍様は、
もしも自分の100%の安全が確保できれば、
十秒フラットで日本や韓国に対して
戦争を仕掛けて、
それを高みの見物をすることだろう。
つまり世界では、
毎日のように個人レベルで、
強盗殺人が起こっているように、
未だ世界では、
いつでも国家レベルでの、
「戦争」という名の、
強盗殺人が起こりかねない、
ということである。
だから日本の自衛隊は、
北朝鮮の暴力を止めるために、
あるいは中国の暴力を暴走させないために、
強くなければならいのである。
このように、
正義の側にいる者は、
役割として強くなければならない。
偉大な大統領がいたとして、
もしもそのボディーガードが
強くなかったら、
それは国民にとって悲しみだ。
すなわち、
正義は人と時と場によって、
善にも悪にもなり、
「正義とは中道である」
ということを述べたが、
暴力を止めるために
武の道を行くこと、
つまりは武道の道を歩むことは、
中道の一部を歩んでいることに他ならない。
もはやこの日本において、
時代は、
戦国乱世でもなく、
刀をさして歩く未発達な時代でもなく、
法秩序の整った近代国家であり、
自衛隊や警察官ばかりか、
最近では
民間のセキュリティーシステムも、
ずいぶんとしっかりしているのだから、
もちろん全ての人が、
武の道を歩む必要は無いが、
しかし一部の役割として、
武の道を歩むことは、
中道の範囲を脱してはいない。
正義が悪よりも
強くなければならない以上、
武道とは悪を打ち砕く、
降魔の道を歩むことであり、
武道は中道の一端である。
つまりこの日本最大の国難の時代において、
国難に気づかず、
悟りを求めることもなく、
肉体を壊すことにもなりかねない、
格闘技にだけ専念することは悪だが、
しかし正義の側に立つ者は、
強くなければならないのだから、
一部の役割として、
武の道を歩むことは善である。
ゆえに
「格闘技と武道は異なる」
と、
そう言い切ることができるだろう。
だからこそ、
私は格闘技にばかり目がいく
この間違った時代に対して、
抗いたいのである。
なぜならそれが、
この日本最大の国難から、
この国を護っていく道だと、
私は信じて疑わないのだから。
もしも未だに日本に今、
訪れている国難に気がつかれていなければ、
この↓ブログを読んで頂きたい。
「日本最大の国難」
http://ameblo.jp/masuraonokaze/
そしてどうか、
本当の武の道を歩み始めて頂きたい。
豪傑猛者の力を国難打破に注いで頂きたい。