殺身成仁を信条として大和魂を持って生きるには、唯物的人生観では不可能 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

さて、「死んだら全てが終わりで、霊など存在しない」などという、
無知な人間たちによって作り上げられてしまった間違った常識を覆し、
死をも恐れぬ大和魂を蘇らせて、
日本最大の国難を打破するために、あえて臨死体験に話を戻させて頂く。


エリザベス・キューブラー・ロスという女性の精神科医も、
臨死体験を研究していた。


彼女は医学の限界に気が付いていた。


なぜなら彼女は精神科医でありながら、
死の淵に立つ患者の心を救うことができずに悩み苦しんでいたからである。


死を数カ月後に控えていたある患者は、涙ながらに彼女にこう訴えたそうだ。


「医者の興味は、私の肝臓の大きさだけなのよ。
 今さら肝臓の大きさがどうだっていうの?
 私には家に五人の子供がいて、みんな私の世話を必要としているの!
 それが心配なの!でも誰もそのことは聞いてくれないじゃない!」


キューブラー・ロスは自分の後輩である医学生達に、
少しでも「生死」について真剣に考えてもらおうと、
様々な手段を使って「死」に関する講演を行ってきた。


死を間近に控えたある十六歳の少女は、
医者を目指す若い人々に向かってこう訴えかけた。


「十六歳であと数週間しか生きられないって、どういうことなの?
 ハイスクールのダンスパーティーに夢を託すこともできないってどういう状態なの?
 デートもできない状態って?
 大人になることも、仕事を選ぶこともできない状態って?
 夫となる人のことも考えられない状態って?
 そんな状態の毎日を過ごす時、果たして何が私の助けになるというの?」


こうしてキューブラー・ロス自身が、
「生死」に関する謎と苦しみに真正面からぶつかり、
苦闘していたある時、彼女は一人の女性から臨死体験の話を聞かされた。


当時は「臨死体験」という言葉そのものが、まだ無い時代であったために、
彼女は驚きを隠せなかった。


なぜなら彼女は長年、精神科医として医学に携わり、
しかもその中でもとくに「生死」というものと非常に密接に関わっていたのだが、
臨死体験の話を全く初めて耳にしたからだ。


しかし彼女はその女性の臨死体験の話を、
「幻覚」だとか、「人格の分裂」だとか決めつけることはせず、否定も肯定もせず、
「一人の人間が体験しているならば、
 他にも体験している人がいるかもしれない。
 そしてもっと多くの体験の話を集めることができれば、
 人間の『死』というものが少しは明らかになるかもしれない」
と、そう考えた。


そして彼女は、洋の東西を問わず、人種民族を問わず、年齢を問わず、
世界中を駆け回って、臨死体験の話をかき集めることにしたのである。


その他にも臨死体験を研究している有名な人に、
レイモンド・ムーディ博士という方がいらっしゃるが、
彼は臨死体験の共通要素として次のことをあげている。


ただし一人の体験に全てが入っているわけではなく、
このうちどの要素を体験するかは、
個々の臨死体験のケースによって異なっているそうだ。


臨死体験を経験する方は、最初は「自分は死んだ」という感覚は無いそうだ。


それまでは事故や病気が原因で、肉体の苦痛にのたうちまわっていたのだが、
いつの間にか苦痛は消え去って、そして病院などであれば、
自分の肉体がベッドなどで横たわっている姿を、上から見下ろすことさえあるという。


また医者の「ご臨終です」という言葉をはっきりと聞く人もいれば、
廊下で医者が看護婦に「もうあの患者は駄目だ」と話している姿を見る人もいる。


しかしその自分の姿は、他の人には全く見えず、話しかけても声は誰にも聞こえず、
手を触れても物をすり抜けてしまうために、
「もしかしたら自分は死んだのではないか?」
という不安な気持ちになる人も中にはいるそうだ。


臨死体験が幻覚と一蹴できないのは、まずここに理由がある。


それは臨死体験者の中には、
自分が救急車で運ばれていく時の様子や緊急手術の様子を一部始終見ていて、
それを後に克明に語り、周囲を驚かせることがあるということだ。


中には医者がどの順番で病室に入ってきたのかを克明に憶えていて、
あとでそれを確認する人もいれば、緊急手術の最中に、
緊張している若い医者が苦し紛れに言ったジョークを憶えていて、
後でそれを真似して医者達を驚かせる人さえいる。


つまり臨死体験が、脳が作り出すただの幻覚や夢のようなものであるならば、
本人が知ることが不可能なことを、後に語ることなどできるわけもないのだが、
しかし現実に臨死体験者たちは、肉体の意識が無い状況下で、
まるで第三者のように自分に起きている出来事を観察して、
それを後に語ることがあるわけだ。


臨死体験をするほとんどの人が、トンネルや川や門や橋を目にする。


「突如、視界の中に黒い点が現れたかと想うと、
 その一点が次第に大きく広がって、
 そしてその中に吸い込まれてトンネルの中にいた」
と語る体験者もいれば、
「知らぬ間に気が付いたら一人になっていて、目の前に大きな川があった」
と語る体験者もいれば、
「見知らぬ人に付き添われて天を昇るように空を上がっていったら、
 巨大な門の前に立っていた」と語る体験者もいる。


トンネルの先とか、川の向こう側とか、
門の中から眩しい程の光が見えて、美しい光景が繰り広げられているそうだが、
その時に、
「トンネルを抜けたら自分はもう帰っては来られないのだ」とか、
「川を渡れば二度と肉体には戻れないのだ」とか、
「門を超えたら地上生活は終わってしまうのだ」とか、
そうしたことを感じる人もいるようだ。


この時に自分の名前を呼ぶ家族の声を聞いて、
振り返ると病院のベッドで寝ていて、
ベッドの周りで家族が必死に自分の名前を呼んでいた、
という臨死体験もたくさんある。


あるいは臨死体験の最中に、すでに亡くなっている父や母、
あるいは友人や祖父母などに出会い、
そうした人々から「帰りなさい」と言われて、意識を取り戻す人もたくさんいる。


臨死体験が夢や幻覚の様なものであると、
簡単には一蹴できない理由は、実はここにもある。


エリザベス・キューブラー・ロスは、
多くの人々に「自分といつもい一緒にいたい人は誰か?」という質問をしてみた。


すると子供であるならば、「ママ」もしくは、「パパ」と答え、
大人であるならば、「妻」とか、「夫」とか、「自分の子供」と答えるものだが、
しかし不思議なことに、臨死体験の最中に出会う人々は、
決して「自分がいつも一緒にいたい人」ではなく、
「既に亡くなっている友人や親族や家族」であるのだ。


だからつまり、
「臨死体験とは、決して脳の中で自分の願望が映し出されている幻覚ではない」
ということがはっきりと言える。


中にはそうした友人や親族ではなく、
光に包まれた「至高の存在」に出会う人も少なくない。


キリスト教の人は、それを「神」や「イエス」や「天使」と表現し、
仏教徒であれば「仏陀」や「菩薩」や「如来」、
イスラム教徒であれば「アッラー」、もしくは「天使」と表現する。


特に幼い子供の場合、先に亡くなっている知人が少ないために、
そうした少し変わった臨死体験が多いと言える。


ピーターという二歳の男の子は、医者から死を宣告された。


母親はピーターの体をゆすって、泣き叫び、
「死なないで!」と必死に懇願するのだが、
残酷にも息子は静かに眠り、何も語らなかった。


母親には永遠の時間に思われた次の瞬間、突然、二歳の息子は目を開いた。


するとまるで老いた賢者の様な声で、彼は次のように言った。


「ママ、僕は死んだんだ。とてもきれいな場所にいたから帰りたくなかった。
 イエス様とマリア様が僕のそばにいたよ」と。


そして臨死体験の中でマリアは、
「まだ死ぬべき時ではないから帰りなさい」と繰り返し、
ピーターに言ったそうだ。


しかしその世界のあまりの美しさ、そして心地よさに、
ピーターは何としてもそれを無視しようとしたそうだ。


まぁ「死」というものをまるで理解していない、二歳の子供だから、
それも仕方がないと言えるだろう。


するとマリアは、彼の手を掴んで押しやり、そしてこう言ったという。


「ピーター、貴方は帰らなくてはなりません。
 お母さんを火から救わなくてはならないのです」


その瞬間、ピーターは目を開けたのだそうだ。


そして彼はこう言った。


「マリア様に言われたから、僕は走ってうちに帰ってきたんだ」


母親はこの息子の臨死体験の話を、十三年も隠し続けて、
そして人知れず一人で悩んでいた。


というのもマリアがピーターに言った言葉を、
彼女は完全に誤解していたからだ。


彼女は「母親を地獄の業火から救わなくてはならない」
と言われたものだと思い込んでいた。


とても信仰もあつく、働き者で真面目な彼女であったから、
どうして自分が地獄に行く運命なのかと、そう彼女は十三年も悩んでいたのだ。


エリザベス・キューブラー・ロスは臨死体験を研究していくうちに、
この母親と出会い、そして彼女にこう言った。


「十三年前、もしもマリア様がピーターを送り返してくれなかったら、
 果たして貴方はどうなっていたでしょうか?」


母親は、両手で頭を抱えてこう言ったという。


「ああ!きっと地獄の業火で身を焼かれる様な、
 そんな毎日を私は過ごしていたことでしょう!」


つまりもしもピーターが帰って来なければ、すなわち彼が死んでいたら、
彼女は地獄の業火で身を焼かれるような、
そんな暗い心となり、辛く厳しい毎日を過ごしていたのかもしれない。


しかしピーターが死なずに帰ってきてくれたおかげで、
彼女はそんな生活を送らずに済んでいるわけだ。


しかしこの意味を母親は理解できずに、
「自分は地獄に行く運命を持っており、それを息子が救ってくれる」
と大きな勘違いしていたのだった。


エリザベス・キューブラー・ロスによれば、
仏教徒の臨死体験者にイエスが現れることはなく、
またキリスト教の体験者に仏陀が現れることもなく、
「我々人間は本当に必要なものを、必要な時に与えられる」のだそうだ。


つまり我々人間が死に直面して出迎えてくるれるのは、
我々が一番愛した、
そして既に亡くなっている人達だと彼女は言う。


そして臨死体験が幻覚とは言い切れない理由の一つに、
やはり臨死体験で見る光景が、
あまりにも仏教やキリスト教といった宗教で描かれている天国と、
実によく似ているという点だ。


仏教にも、キリスト教にも、イスラム教にも、ユダヤ教にも、
天国や地獄という世界の概念があり、
そしてこうした宗教で語られている天国とは、
決して何か意識に幕がかかっているような、
意識が朦朧(もうろう)とした世界ではなく、
はっきりとした世界であるのだが、
臨死体験で垣間見る天国の光景も、
やはり意識のはっきりとした美しくもあり、そして心地よい世界であった。


日本人であるならばよく出てくるのが三途の川であり、
キリスト教圏に住む人々であるならば、美しいお花畑などがよく登場する。


決して一様ではなく、人それぞれ異なっているために、
こうしたことから「臨死体験は脳の幻覚なのではないか?」とか、
「人格の分裂ではないのか?」という主張も生まれてくるのだが、
しかし逆に、
「我々人間は本当に必要なものを、必要な時に与えられる」
ということを踏まえたら、
その人の宗教的信条に合わせた光景を臨死体験で見るのも、十分に納得できる。


しかもこうした臨死体験に関する記述は、実は現在にだけ言われているのではない。


臨死体験ということは、実は遥か昔から言われて来たことなのだ。


たとえば、今から約二千数百年前、
パンピュリア族の血筋をうける勇敢な戦士エルは、戦争で命を落とした。


しかし他の兵士の肉体は、徐々に腐敗していくにも関わらず、
彼の遺体だけは十日が過ぎても腐敗しなかった。


そのために、彼の遺体は家に送られることになった。


そして薪の上に寝かせて火を着けると、
なんと驚くことに彼は息を吹き返したのだ。


しかし彼が語った話を聞いて、人々はもっと驚くことになる。


なんと彼はあの世、つまり死後の世界を見て来たというのだ。


エルは肉体を抜出して魂だけとなり、
大勢の兵士達と共にあの世に向かっていったそうだ。


生前、正しく生きた者は天国へと行き、悪そのものの生き方をした者は、
地獄へと墜ちていく様子を、彼はそこで見た。


そして生前に地位が高く、富や権力や軍隊を持ち、
暴政のままに多くの人々を苦しめて生きてきた人が、
死後何千年経っても地獄から抜け出すことが出来ずに苦しんでいるということも、
彼はそこで耳にした。


さらに彼は人が生まれ変わる瞬間にも、立ち会って来たというのだ。


その内容を、プラトンという哲学者は、
『国家』という書物の中に書き残した。


プラトンという人は、今から2000年以上も昔の人だが、
そうした人が臨死体験を書物の中に書き記していたのだ。


なぜなら真理というものは、
一万年前も、一万年後も、永遠に変わることのない自然法則だからであり、
我々人間が肉体を持った霊的生き物であり、
老衰や病気や事故などによって肉体が死ぬと、
肉体と霊体が離れて、
人間は霊だけの存在となって霊の世界に還っていくことなど、
永遠に変わらぬ自然法則だからである。


しかし永遠に変ららぬ真理を追究することなく、
たとえば脳などばかり研究していたり、
あるいは医学ばかり勉強していると、
時に「自分は何でも知っている」と自惚れてしまうことさえあり、
そして現代の科学は未だ霊を発見できないために、
唯物論に染まっていってしまうことも十分にありえるわけだ。


そして洞窟に囚われて、議論を続ける哀れな囚人のように、
「脳が活動を停止したら、それが死だ」とか、
「いや心臓が止まって、脈を打たなくなった時だ」とか、
そうした答えの出ない議論を、哀れにもいつまでも続けるのである。


しかし己の無知を反省し、真理を追究して、
哲学的に理論を組み立てていけば、
これだけ世界に神秘的事件が続発している以上、
霊が存在し、人が生まれ変わりを繰り返していることなど、
実は簡単に説明が付く、
そうであるならば、
「人の死とは霊と肉が離れた時である」と、

簡単に答えを出すこともできるわけだ。


まさしく知識に溺れる「一流の知識人」と呼ばれる人々の無知さは、何とも哀れである。


なぜなら必死に勉強と研究を続けることで、
知らぬ間に自惚れてしまえば、
真理を追究することを忘れて、
結果的には無知になっているからだ。


しかしジョン・スチュワート・ミルも言ったではないか。


「満足した豚よりも不満足の人間の方が良い。
 満足した愚か者よりも、不満足のソクラテスの方が良い」
と。


まぁ「豚」などと、何とも激しい言葉であるために、
私の考え方とは異なるが、
あえて意味は訳すならば、
「快楽的に生きて、豚のごとく満足して生きるよりも、
 ある程度はストイックに人間として生きたい。
 自分は何でも知っていると満足して愚かに生きるよりも、
 ソクラテスのように満足することなく、
 きちんと己の無知を自覚して、真理を探究しながら生きていきたい」
とでも言えるのではないだろうか。


この国は今、最大の国難を迎えている。


それは中国共産党によって行われている、
情報による侵略戦争が、この国難の最大要因だが、
しかしそれに同調して、
沖縄を中国に明け渡そうと「沖縄ビジョン」を掲げる民主党も、
やはり国難の要因の一つであり、
そしてやはり日本男児が唯物論に染まり、
この国に大和魂が無いことも、この国難の要因の一つである。


ならば唯物論を日本に広めている人物も、
国難を作っている罪深い人物と言えるだろう。


その人間は、確かに身の回りに人々には優しく、
人柄も良く、決して悪人ではないかもしれない。


しかし無知であるにも関わらず、
真理と真逆の考え方を大々的に述べることは、
実は真理に対する大きな大きな罪であり、
しかもこの日本最大の国難の時に行うことは、
国を滅ぼしかねない罪であり、
愚かゆえに行うその罪は、

より深い罪と言える。


「たとえ身を殺してでも仁を成す」
これは儒教の陽明学の言葉であり、
「殺身成仁(さっしんじょうじん)」というのだが、
「死んだら終わりで霊など無い」という真理とは正反対の無知な考え方で、
どうして「己の生命を投げ出してでも仁を成そう」と、
男子が本気で思えるというのだ。


そして日本男児が軟弱なままで、
どうして日本最大の国難を打破できると言うのか。


竜馬のように「人はことを成すためにこの世に生まれて来た」と考え、
そして「たとえ肉体が滅び去ろうとも、霊が存在する以上、魂に死はない」と、
真理に則った正しい考え方を持つからこそ、
「たとえ身を殺してでも仁を成す」と、
本気で心の奥底から思えるのだ。


真実の大和魂と生命の真実は密接なであると、
何度も、何度も、しつこいくらい言い続けているが、
日本最大の国難 の今、一人でも多くの人に生命の真実を知って頂き、
「殺身成仁」を信条として、大和魂を持って生きて頂きたい。


しかしそのためには、
満足した愚か者たちが、己の無知さをきちんと悔い改めて、
不満足のソクラテスにならなければならないだろう。