一流の権威に踊らされず、聖なる権威にこそ目を向けるべき | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

(長い文章だが、

 是非とも全ての日本国民に読んで頂きたい)


仏教にこんな話がある。


あるところで、二人の親友が再会を果たした。


しかし片方の人は、
とてつもない大金持ちと成っていて、
もう片方の人は、
貧乏のどん底にいた。


酒を酌み交わして語り合っている内に、
貧しい人はウトウトと寝てしまった。


しかし豊かな友は急ぎの用事があったために、
すぐにその場を離れなければいけなくなった。


そこで彼は、これから先、
貧しい友が生活に困らないように、
寝ている友の襟の所に、
「値打ちの付けることのできない高価なダイヤモンド」
を縫い付けてあげた。


「これで彼も貧しさに苦しむことはないだろう」


そう想って、
豊かな友は旅立っていった。
それから幾年、幾十年の月日が流れ去り、
彼らはふたたび再会することになった。


しかし貧しい友は、前よりも痩せ細り、
何とも貧しそうに同じ服を来ているのだ。


そこで豊かな友は訊ねた。


「なんで貴方は、そんな貧しい暮しをしているのだ?
 私があげたダイヤモンドはどうした?
 あれは値打ちが付けられないほどに高価なのだから、
 あれ一つで十分に豊かな暮らしができるはずだぞ?」


貧しい友は驚いて訊きかえす。
「ダイヤモンド?
 そんなものがどこにあるんだ?
 私は貰った覚えはないし、
 それにそんなことは、
 前回に会った時に一言もいわなかったではないか?」


「確かにはっきりとは言わなかったけれども、
 でも襟の所をよく調べてみろ」


貧しい友が自分の襟の所を調べてみると、
高価なダイヤモンドは確かに縫い付けられていた。


それを見て、貧しい友は言う。
「なんだ、こんな素晴らしいダイヤモンドの存在に気が付いていれば、
 私だって、貧しい生活に苦しむことはなかったというのに」


これは「無価(むげ)の宝珠(ほうじゅ)」という譬(たと)え話だが、
しかしこの譬え話にもある様に、
我々人間は、真理を知らぬがために、
「霊性」という名の自らの中にある
尊い値打ちに気づいていないことがよくある。


人間とは、
自らの中にダイヤモンド以上の

遥かに尊い値打ちを持っていながらも、
その値打ちには一切気付かず、
それどころか自分を炭であると勘違いして、
他のものばかりに値打ちを求めて、
貧しい暮らしを送っていることも少なくない。


しかし確かに人間は炭ではなく、
霊性という名の値打ちのつけられないダイヤモンドだ。


だから我々人間は、
自らの値打ちを知らなくてはならない。


しかし今、世の中には、
「物こそ全てであり、霊など存在しない」
という唯物思想、あるいは
「脳こそが人間の全て」
と考える唯脳思想が蔓延っている。


しかしそれらの考え方も、
やがて時代が進めば、
人類が作り上げていた「勝手な想像」だった、
ということが分かるだろう。


たとえばかつての人々は、
地球の周りを太陽が回っていると、
間違った真実を信じていたが、
しかし大昔のインドの人々となると、
もっと面白い地球の姿を勝手に想像していた。


強大な蛇がとぐろを巻いて、
口でその尻尾をくわえていて、
その蛇のトグロの上に巨大な亀が乗っかり、
亀の甲羅の上には三頭の象がいて、
半球の大地を支えている、
そんな「勝手な想像」をしていたのだ。


しかし科学が発達することによって、
その「勝手な想像」は消え去り、
ただの言い伝えとなった。


これと同様に、現代の科学者、
とくに脳を専門とする方の中には、
「心とは結局、大脳皮質の皺にしか過ぎず、
 脳の活動停止が人の死であり、霊など存在しない」
と、そう主張する人もいるが、
しかし霊が現実に存在する以上、
その主張も「勝手な想像」に過ぎないのである。


アインシュタインは言った。


「聖なる好奇心を持ちたまえ」と。


また発明王エジソンは、
「天才とは99%のパースピレーション(努力)と、
 1%のインスピレーション(霊的直感)である」
と述べた。


このエジソンの言葉を、

「天才にも努力は必要なのか」と、
そう受け止める人は多いだろうが、
しかし、
「1%の霊的直感が無ければ成功は無い」
という意味にもとれる。


つまり科学者たちが、
己の富や名誉のための汚れた好奇心ではなく、
天下国家のために聖なる好奇心を持って努力し、
そして霊的直感が降りて来た時、
霊の存在は科学者によって証明され、
これまでの歴史と同様に、


「勝手な想像」は姿を消すことだろう。


実は科学が発達して、
そして学問があまりにも細かく分かれ過ぎているために、
実は同じ理系であっても、
たとえば医学と物理と数学の世界では、
全く世界が違うために、
互いの世界のことはよく分からないのが実情だ。


つまり脳などの肉体に詳しい人は、
素粒子などの物理にも、
方程式などの数学にも、
実はあまり詳しくないわけだ。


喩(たと)えるならば、
「学問」という一本の樹があり、
そして理系とか、文系とか、
そうした太い枝が別れていたとして、
同じ方向を向いている理系であっても、
すでに樹そのものが大きく育って、
長く枝が伸びているために、
物理、医学、数学という枝は、
互いに遠く離れていて、
互いの世界の最先端のことまでは、
実は知らないのだ。


すなわちもちろんのことだが、
パソコンを直せる人が病気を直せる訳ではなく、
病気を直せる人が物理の理論を解けるわけではない、
ということだ。


包丁を巧みに扱う人だからといって、
外科手術が出来る訳が無いように、
医学や物理にに詳しいからといって、
「生命」というテーマを適当に料理して、
「霊は存在しない」と断定することは大きな間違いであり、
それは「自惚れ」によって生じた人類への罪である。


つまり世界は未だに神秘に満ちているにも関わらず、
科学者が、
自分が研究している一つの分野だけで、
「生命とは何か?」という壮大なテーマの答えを、
「すでに解けた」と考えるのならば、
それは傲慢以外のなにものでもない、
ということだ。


確かにガリレオの時と同様に、
霊という問題に対して、
こう語る人もいることだろう。


「私は霊の存在を信じることはできない。
 なぜなら人の目には死んだ人間の姿なんて映らないし、
 科学も未だに霊を確認することができないからだ。
 そもそも人間が死んだらどうなるかなんて、
 私たちには永遠に解らないことだ」


確かに我々の目には、
なかなか死んだ人の姿は見えない。


ごく普通の人間の目には物しか映らない。


だから「死ねば全てが終わりである」という言い分の方が、
確か現代の常識からすれば、
まともに聞こえるかもしれない。


そのために、
「霊が存在し、肉体は死んでも、その人の心だけは生き続ける」
という言い分の方が、
確かに現代の常識からすれば、
おかしく聞こえるかもしれない。


しかしそれは古い常識に縛られて、
「地球が時速10万キロメートルで動いているようには、
 到底見えないから、やはり太陽こそが動いているのだ」
と述べていることと、似ているのではないか?


確かにその時代の常識とは異なる真実を語ることによって、
真実を語った人間が嘲笑され、
そして迫害を受けることも時にはある。


しかし時代が進歩することによって、
常に真実は明らかにされ、
そして常識はくつがえされてきたのだ。


現代を生きる権威を持った一流の知識人たちの中には、
「霊」という言葉をあざ笑い、
「そんなものは迷信だ」と一蹴する人さえいる。


しかしガリレオはこう言っている。


「真実は権威ではなく、
 探求して証明されることによって明らかにされるべきだ」
と。


ガリレオを裁判に掛けた人々は「権威」ある方々であり、
当時のガリレオには何の「権威」もなかった。


しかし「真実」は「権威」の無いガリレオにあり、
間違いは「権威」ある方々にあった。


なぜならいつの時代でも、
ガリレオを裁判にかけたような、
権威ある一流の知識人というのは、
その時代の常識の範囲内でしか物事を考えることができず、
数百年、数千年という時間の波に押し潰されていくが、
しかしガリレオのような時代を超えても人類史に名を残すような、
そうした超一流の人々というのは、
決して常識にとらわれることなく、
真実を明らかにして、
常識を覆して時代を著しく進歩させていくからだ。


そして何よりも、
我々人類が忘れてはならないこと、
それは仏陀、イエス、モーゼ、ソクラテス、モハメッド・・・
こうして世界に名だたる大聖人たちが、
霊魂の存在を認めていた。
生徒には分からず、見えず、理解できないことでも、
教師には分かり、見えて、理解できることもあるように、
普通に生きる我々には分からない真理を説くことができたからこそ、
彼らは大聖人として、
今でも世界中の人々から尊敬されているのだ。


もしも霊が存在していないのならば、
仏陀も、イエスも、モーセも、ムハンマドも、
世界に名だたる大聖人などではなく、
実はただデタラメを並べ立てた狂人変人ということになる。


そしてもしも一部の知識人たちが語る様に、
霊が存在していないのであるならば、
人類はただの狂人変人に、
永きに渡って騙され続け、翻弄され続けて、
歴史を創り上げてきた、
ということになってしまう。


しかし確かに宗教とは、
人間教育の原点であり、そして文明興隆の原点であり、
仏陀がいなければアジアの文明は無く、
イエスがいなければヨーロッパの文明は無い。


だからこれまでの歴史と、これらの文明と、
そしてこれらの文明の中で生きてきた人々こそ、
仏陀やイエスやモーセやムハンマドが狂人変人などではなく、
彼らが大聖人であったことの証拠と証人であり、
そして彼らが大聖人であったことこそが、
「霊は存在している」ということの証明である。


確かに孔子の儒教には、「子、怪力乱神を語らず」とある。


つまり儒教の論語には、
「先生は神秘的な事柄については語らなかった」とあり、
霊そのものについて、確かに孔子はほとんど触れていない。


しかし論語にはこうも書かれている。


「子曰く、民の義を努め、鬼神を敬(けい)して
 之(これ)に遠ざかる、知と謂(い)うべし」
これはどういう意味かというと、
「神霊を大切にして人として正しく生きながらも、
 神霊に頼り切る人生は生きない。それが賢い生き方である」
ということだ。


つまり孔子という方は、
「人間の教育」ということの他に、
国をより素晴らしく造っていく「政治」ということにも、
重点を置いた。


そして政治という仕事は、
この三次元世界を具体的に動かしていく仕事である。



そのために孔子という方は、
「天に代わって国民を治める政治家とは、
 徳を備えて者でなければならず、
 そうした者が常に『神頼み』や『他力本願』ばかりであったら困る」
と考えたのか、
「神霊を大切に敬いながらも、神霊に頼り切ることはしない」
という姿勢を人々に教えたわけである。


このように儒教の孔子という方も、
目に見えない霊的な存在を認めていたのだ。


ならば孔子という人類史に残る名立たる大聖人も、
「霊は存在している」と証明する有力な証人と言える。


そしてソクラテスやプラトンなどの哲学者も、
彼らが哲学を行う本当の目的は、
科学的、あるいは合理的な手法によって、
生や死といった霊的な事柄を理解してもらい、
「正しい人生とは何か?」ということについて学び、
考えてもらうところにあった。


実際にソクラテスは、
『メノン』の中で次のように語っている。


「人は何度も生まれ変わりを繰り返している。
 そのために、今生きている人間は、
 既にありとあらゆることを学んでしまっているのだ。
 したがって、『学ぶ』とか『探求する』とかいう行為は、
 実は既に知っていながらも、
 本人が忘れてしまっている事柄を想い起こすことにほかならない」と。


このように哲学の祖と言われるソクラテスも、
霊の存在を確実に認めていた。


つまりソクラテスやプラトンは、
合理的な手段によって、
人々を霊的な世界に歩み寄らせ、
正しい人生を生きてもらうことを目的としていたわけだ。


かつてのギリシャにおいて、
ソクラテスの友人がある時、
「ソクラテスに勝る智者はいない」というお告げを神々から受けた。


まぁ言ってみれば、
何らかの霊感がある人が、
四次元以降の世界から、何らかのインスピレーション、
あるいは霊的啓示を受けたのだろう。


それを聞いたソクラテスは驚いた。
なぜなら彼は、自分自身を智者だとはまったく考えていなかったし、
それに何よりも世間には、
自ら「知者」と自負する人々が世の中には大勢いたからだ。


しかし「神が嘘のお告げをする訳が無い」と考えて、
彼は「知者」と名乗っている人々の元を訪れて、
様々な質問をして回った。


そこで彼はこういった考えに辿り着いた。


「自ら知者だと名乗る人々は、確かに知識には秀でていた。
 だから彼らはそれらのことについては、よく語ることができた。


 しかし彼らは何よりも肝心な勇気であるとか、
 真理であるとか、魂であるとか、
 そういった人間にとって何よりも重大な本質的なことに関しては、
 何も語ることができず、ただ言葉を詰まらせるばかりだった。


 そうであるにも関わらず、
 彼らは自分が知者であると自惚れていた。
 もちろん私自身も、決してそれらを知り尽くしている訳ではない。


 しかし自分が無智であるということを知っている分だけ、
 どうやら私は彼等より智者として勝っているらしい。
 だから神のお告げに間違いはなかった」


これが有名な「無智の知」ということだ。


現代は本が溢れている世の中だから、
二千数百年前に生きたソクラテスよりも知識に溢れている知者など、
現代にはたくさんいるかもしれない。


しかしソクラテスほど勇気とか、真理とか、正義とか、
そういった本質的なことを知っている賢者となると、
そうはいるはずもない。


しかし二千六百年前においても、
そして現代においても、
「自分は知者である」と自惚れて、
勘違いしている人はいるのだ。


その証拠に、まったく滑稽なことだが、
日本の最高学府である東大の教授なんかでも、
「霊は存在しない」と豪語している愚かな人はたくさんいる。


しかし霊の存在を否定している唯物主義者というのは、
科学を万能だと錯覚しているか、
あるいは自分は「何でも知っている」と、
ただ自惚れているだけにしか過ぎず、
そして彼らは大切な事実を忘れているのだ。


では彼らが何を忘れているのかと言えば、
それは宗教が教育と文明の原点である以上、
自分たちも宗教から多大な恩恵を受けていて、
そしてその宗教は霊の存在を認めている、という事実だ。


つまり、たとえ東大の教授であろうとも、
「唯物・唯脳主義者というのは、
 己の無知を自覚せずに、
 そして宗教からの恩忘れ、
 さらには宗教が霊の存在を認めている」、
という事実にも全く気がついていない
ただの愚か者である、ということだ。


なぜ「愚か者」などと、
厳しい言葉を使うのかといえば、
それは「人間は死んだら終わり」という唯物・唯脳的な考え方は、
時に人々を、「人に見つからなければ何をしても良い」と考えさせたり、
あるいは人々をニヒリズム(虚無主義)に変えてしまい、
そして「自分はみすぼらしい存在」という考え方さえ生み出させて、
人を不幸せにするばかりか、
何か苦しい出来事が起きた時に、
「死んで楽になろう」と、
自殺に追い込んでしまうことさえあるからだ。


実際に今、この日本という国には、
「人に見つからなければ何をしても良い」
という考え方のもとに、
詐欺事件や偽装事件が横行しているし、
東大の名誉教授で、脳を専門的に扱う解剖学者であり、
唯脳論者でもある養老孟司の著書『悩みのツボ(大田光共著)』には、
彼の教え子が苦難の末に自殺してしまったことが、
何ともあっさりと書かれている。


あえて言うが、
養老孟司を始めとする唯物論者、
あるいは唯脳論者は、
自身が持っているその愚かさゆえに、
人類に対する大罪を行っている。


ならば一刻も早く、悔い改めるべきだ。


すでに述べたように、
仏陀、イエス、モーセ、孔子、ソクラテス、ムハンマド、
こうした世界に名立たる大聖人たちが、
霊魂の存在を認めていたわけだ。
時代を越え、土地を越え、人種や民族を越え、
文化や文明さえも越えて、互いにその存在さえしらず、
連絡手段が無いにも関わらず、
偉大な宗教家たち、あるいは偉大な哲学者たちが、
一貫して「霊は存在している」と語っていたわけである。


ならば我々人類は、
その時代の中で消えて埋もれていく
、「一流という権威」に踊らされることなく、
仏陀やイエスといった「偉大な聖なる権威」にこそ、
今一度、目を向けてみるべきではないか。


なぜならそこに、霊の証明があり、
そしてそこに、大和魂の復活があり、
そして国難打破があるのだから。