さて、日本にある最大の国難について、
是非とも、一度考えて欲しかったために、
あえて同胞である日本男児を、
卑怯者と臆病者と述べさせて頂いた。
しかしはっきり言って卑怯なのは仕方がない。
なぜなら戦後の日本の教育が、
間違っていたからであり、
そして中国共産党があまりにも狡猾だからだ。
教育界やマスコミなどにも罪があり、
中国共産党も狡猾であり、
こうした様々な諸事情によって、
日本最大の国難の事実を知らず、
国が人生の土台であることを知らないことなど、
むしろこの国にとって当然のことだ。
だから私は本心では、
同胞たちを、
ちっとも卑怯だとは考えていない。
日本最大の国難を知って頂き、
そして考えて頂くために、
あえてぶつけた言葉である。
しかしやはり日本男児が、
かつての戦国武将、維新志士、靖国の英霊に比べて、
軟弱で臆病者になってしまったことは、
変えることのできぬ事実であろう。
この国のかつての男たちのように、
「自分は益荒男である」
と、堂々と胸を張って言える者が、
果たして幾人いるのだろうか。
ではどうして現代の日本の男たちは、
死を覚悟することができなくなり、
命の使い方が大胆ではなくなったのか?
つまりなぜ、かつて「大和」と呼ばれ、
そしてこれまでこの大和の国を築き上げ、
護り抜いてきた大和の精神が、
この国から完全に失われてしまったのだろうか。
その理由は、実に簡単である。
一つ目の理由は、
この日本の二千八百年の歴史の中で、
実は一度たりとも日本男児の心であるこの大和魂というものが、
明確に言葉にされることがなかったからだ。
すでに述べたように、
「武士道と云(い)は死ぬことと見つけたり」と述べた「葉隠」、
その作者の山本常朝(じょうちょう)であるとか、
「古事記」を研究した本居宣長(もとおりのりなが)であるとか、
本居宣長を研究した小林秀雄であるとか、
日本の心を探求した人はたくさんいても、
大和魂そのものを一冊の書物にまとめることはなかった。
(ちなみに最近、人々で人気のある漫画、
『花の慶次』の原作者・隆慶一郎は、
小林秀雄の弟子にあたる。
そのために漫画『花の慶次』には、
大和魂の一部が描かれているのだろう)
実は今まで、一度も、
理論的な言葉でもって、
大和魂が語られたことはないために、
「この一冊を読めば大和魂が分かる」
という本は存在していない。
そのために多くの日本国民が
「大和魂とは、どんな精神なのだろう?」
と疑問を抱いても、
その疑問を説くことができなかったのである。
大和魂が失われた二つ目の理由、
それは「宗教編」でも述べたように、
大和魂という精神は、
神道を軸に仏教や儒教を取り入れながら築き上げてきた精神であるが、
しかし宗教に対する誤解や偏見、
そして科学の中途半端な発展によって、
「生」と「死」の本当の意味を教える宗教が、
隅に追いやられているからである。
つまり教育の原点として、
生と死の本当の意味を教える宗教が隅に追いやられることで、
「日本国民が生と死の意味を何も知らない」
ということが、
日本国民が大和魂を失ってしまった理由である。
哲学者ソクラテスは言う。
「友よ、多くの人は食べるためにいきるが、
私は生きるために食べる。
もう一度考えて欲しい。
単に生きることではなく、
人は善く生きることこそを、大切にしなければならないことを」
と。
理論的、あるいは科学的に、
「生」と「死」の意味を教え、
そして「人としての正しい生き方とは何か」
ということを学んでいくのが、
本当の哲学であるが、
しかし現代の哲学は、
ただの言葉遊びに堕落してしまっている。
つまり生死を教える宗教が隅に追いやられ、
生死について考える哲学も堕落することで、
日本国民は今、
「人はなぜ生まれてきて、人はなぜ死んでいくのか?」
という、
人生にとって最も大切なことが分からなくなっているわけだ。
その結果、
「自分が毎日楽しければ良い」、
「面白可笑しければそれで良い」、
「世のため、人のために生きることなどバカバカしい」、
こうした考え方が日本中を蔓延(まんえん)してしまい、
人々の興味があるものと言ったら、
芸能、スポーツ、ファッション、グルメ、ゴシップ、スキャンダル・・・・。
「自分が毎日楽しければ良い」、
「面白可笑しければそれで良い」、
「世のため、人のために生きることなどバカバカしい」、
こうした自己中心的な考え方と大和魂は、完全に矛盾している。
そして今、
平和ボケを続け、大和魂を失った日本国民は、
このままでは、
中国共産党によって自由を失い、
虐殺されかねない未来を受け入れようとしているわけだ。
ならばやることは、ただ一つ、
失われた大和魂を蘇らせることである。
そして大和魂を蘇らせるためには、
まずは「大和魂とは何か?」と語ることが大切であり、
そして隅に追いやられ宗教を、
つまり「生」や「死」の意味を教える宗教を、
元の位置に戻すことが重要である。
すでに大和魂については、
「精神編」で少しばかり語らせて頂いたので、
次は「神秘」を科学的に証明することが重要だ。
なぜなら宗教には、
必ずや「神秘」というものが付いてくるからである。
仏教でも、
生まれ変わりを意味する
「転生輪廻(てんしょうりんえね)」というものがあり、
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教にも、
「霊」という言葉は、ごく当然に登場する。
しかし科学の発展に伴って、
神秘的な事柄がこの国から失われたために、
「霊の存在を信じ、転生輪廻を信じる」と考える人も、
極端に少なくなった。
しかし吉田松陰を始めとする、
大和魂を持って戦った志士たちは、
一般的な現代人と比べて、
はるかに命の使い方が大胆であったわけだが、
それは彼らが霊の存在を信じていたからである。
霊の存在そ信じるか、
それとも否定するかによって死生観が変わり、
そして命の使い方が変わっていくのだ。
吉田松陰が霊の存在を信じている証拠に、
彼はこんな言葉を遺している。
「天照豈(あ)に霊なからんや。
先公豈(あ)に神なからんや。」
つまり吉田松陰は、
「天照大神に霊が無いはずもなく、
天照大神は今も霊として必ず存在している。
これまでこの日本を築き上げてきた先人たちが、
神として存在していないはずもなく、
彼らは八百万の神々として今も必ず存在している」
と、そう述べたわけだ。
死に対する恐怖心を薄れさせて、
命の使い方を大胆にして、
その人間に真の勇気を持たせるためには、
人生観と死生観が大きくかかわているわけだが、
しかしそこには
「霊の存在についてどう考えているか?」
ということが、
実は大きな鍵を握っているわけである。
つまり
「自分は死んだら霧のように消えて無くなる」
と考えるか、あるいは、
「たとえ肉体は死んでも、自分の心は魂としていつまでも生き続ける」
と考えるか、これをどう考えるかによって、
「命の使い方」は消極的にもなれば、
大胆にもなるわけだ。
すなわち本当の勇気と死生観は、
とても密接な関係であり、
そして死生観と霊の存在も、
とても密接な関係であるわけだ。
もっと簡潔な言葉で言えば、
「勇気は霊である」
とも言えるかもしれない。
なぜなら吉田松陰のように、
霊の存在を認めることから、
死に対する恐怖心は薄れ始め、
命の使い方が大胆になっていくからだ。
このように
「霊の存在を否定するか、それとも肯定するか?」
ということが、
自身の持つ勇気の量を変えていくわけである。
だからこそ真実の大和魂を蘇らせるためにも、
霊の存在を科学的、論理的に証明することが重要であると、
そう言えるだろう。
表現を変えれば神秘の科学的証明、
それが大和魂の復活に貢献する、
ということだ。
だからこそ、私はこれから科学的、論理的に、
霊と神秘の存在を証明していこうと思う。
「霊なんて存在するのだろうか?
神秘なんてあるわけがないではないか?」
と、そう疑っている方にこそ、
本当の勇気を持って、
そして胸の中で眠っている大和魂を蘇らせるためにも、
どうか読んで頂きたい。
ちなみにこの「神秘」というこの言葉は、
英語にすると「オカルト」になるわけだが、
この「オカルト」と「洗脳」という意味の「カルト」を同じものに結び付けて、
「宗教は全てカルトであり、
洗脳である」と考えてしまう人も、
英語音痴の日本人にはどうやら多いようだ。
しかしそれは違う。
宗教はカルトでもなければ洗脳でもなく、
宗教に神秘は付き物であり、
確かにオカルトではあるが、
そこには「悟り」という名の人間としての成長がある。
正しい宗教には神秘を意味する「オカルト」と、
悟りという人間成長があり、
間違った邪教には、
ただ洗脳を意味する「カルト」だけがあるわけだ。
先ほど私は
日本の同胞を本心では卑怯者だとは思っておらず、
仕方がないと述べたが、
現代の日本男児が死を覚悟できないのも仕方がない。
なぜなら現代の科学が、
霊の存在を肯定することができていないからであり、
一流の知識人と呼ばれる者どもが、
「霊など存在しない」
という論調で、
平然と公の場で口を開いているからだ。
ならば一流の知識人ともの、
伸びたその鼻をへし折ることが、
この日本では大切なことである。
霊、そして神秘の科学的証明を行い、
一流の知識人どもの鼻をへし折ること、
これこそが大和魂の復活に結びつき、
そして国難を打破していくことに貢献するならば、
大学すら出ていない無知な私が、
彼らの鼻をへし折りたいものである。