自問自答し、大和魂を取り戻すべき時代 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

悲しいことに世界には、
一度も他国から侵略を受けたことが無くても、
それでも未だに発展や繁栄のない、
貧困国もたくさんある。



誰だって一度でも海外に旅行して、
そしてその国の美しい観光地だけでなく、
その国に生きている人々の暮らしと現実を目の当たりにすれば、
必ずと言って良いほど、
「貧しさ」というものに直面させられるはずだ。



あるいは世界には、
賄賂が横行している国もあり、
何の罪も犯していないのに警察に捕まって、
賄賂を払えば牢屋から出られて、
お金が無い人は牢屋から出られない国さえある。

つまり人権が軽く扱われている国なんて、
たくさんあるわけだ。



もしくは日本では水道の蛇口をひねれば、
当たり前のようにきれいな水が飲めて、
しかもその水は世界で一番信頼のできる水だが、
しかしこの日本では当然なことでさえ、
世界では実は当然ではなく、
蛇口をひねって安全な水が出てくる国は世界に僅か11カ国しかなく、
水に困って生活している人なんてたくさんいる。


日本に生きる多くの人々が、
「日本に生まれた幸せ」を知らないことがよくあるが、
しかし日本に生まれたことは、
確かに世界の人々からすれば、
とても恵まれていることである。



外国に行く時、
我々はパスポートを持って行くわけだが、
実はレストランやホテルにランキングがあるように、
このパスポートというものにもランキングがある。

その国に対する「信用」によって、
ランキングが変わるのだ。



世界には人口の少ない国から、
中国のような十何億もの人口を抱える国さえあるわけだが、
外国の人を自分の国に受け入れる時、
「犯罪に手を染めないか」、
「観光や留学で来て、そのままビザ無しで居ついたりしないか」、
「何かトラブルが発生した時、国がきちんと責任を背負ってくれるか」、
こうしたことによって「信用度」が決まる。


そして日本はその「信用度」が高いために、
日本のパスポートは世界のトップレベルであり、
ノービザで多くの外国に行くことができる。


あるいは日本には四季がある。



しかし世界には、
氷で埋め尽くされた厳しい極寒の地もあれば、
砂で覆われた厳しい灼熱の地もあり、
この「四季」というものを、
多くの日本人が当たり前のように捉えているが、
しかしそれも決して当たり前ではない。



もしも日本に四季が無ければ、
日本の芸術も乏しいものになり、
我らの暮らしも、
何か味気ないものになっていたことことだろう。


確実に言えることは、
もしも日本に四季が無ければ、
「春は曙」から始まる清少納言の「枕草子」は存在していなかった。



そしてもしもそうであったら、
清少納言のライバルであった紫式部の「源氏物語」も、
無かったかもしれない。


清少納言や紫式部は、
これまで多くの文学者に影響を与えてきたから、
日本に四季が無ければ、
日本の文学界はかなりつまらなくなり、
それは歌謡界、映画界にも影響を与えただろう。



日本に生きる人々は、
外国と日本をきちんと比較したことがないために、
「日本に生まれた幸せ」ということを、
知らないことがよくある。


いや、
「日本に生まれた幸せを知らなさ過ぎる」
といっても過言ではない。


そのために「日本」に対して不平不満ばかりこぼしていることも、
どうやら少なくないようだ。


しかし悲しいことに、
世界には自分の国を誇りに思うことができないばかりか、
「その国に生まれた」という理由だけで、
辛く苦しい思いをさせられている人々が、確かに大勢いる。


こうしたことを考えた時、
我々は自分自身の心の中で、
自問自答してみるべきではないだろうか。



「自分はこれまで、この日本という国から、
 多大な恩恵を受けてはきたが、
 しかし自分は国に対して、
 どれだけその恩を返してきたか、返そうと努力してきたか」

「親が子を愛し、子がその恩を親に返そうと孝行するように、
 自分はこれまでの人生で、
 どれだけ国に尽くし、これから尽くしていくいくことができるのか」


「国が自分たちのために何をしてくれるのかを考えるのではなく、
 自分たちは国のために何ができるのかを考えて欲しい」、
 そう言ったのはケネディ元アメリカ大統領だが、


我々日本人はいつからか、

「国は人生の土台である」という真実を忘れて、
「日本は自分たちのために何をしてくれるのか?」ということばかり考えて、
「自分たちは国のために何ができるか?」
ということを考えることを停止させてしまっているのではないだろうか?


世界から見れば、
確かに日本は先進国の一員であり、恵めれた国であり、
日本人は恵まれた人間である。

その一方で、

世界には恵まれない国、恵まれない人間がたくさんいる。


最近では「後進国」とは言わず、
「途上国」と言うようになった。


どうやら「後進国」では、
「後の国」というニュアンスが含まれて、
差別的だからだという理由らしい。


しかし最近よく使われているこの「途上国」という言葉が、
なんとも厄介であり、そして曲者(くせもの)だ。



なぜなら実は世界には「発展の途上に無い国」が、
たくさんあるにも関わらず、
知らぬ間に「途上国」という言葉を使い続けていると、
「そうした貧しい国も、月日が経てば、
 やがて自分たちの力で発展していくのだろう」と、
安易な考えにさせてしまうからだ。


しかし貧しい国々の中には、
貧困が人口爆発を生み、
人口爆発が貧困を悪化させている地域もある。


そしてエイズ知識が無いために、
エイズが広がっている地域もある。


紛争が貧困を激化させている地域もある。


つまり発展の途上にないばかりか、
後退している国さえ世界にはあるわけだ。



それはすなわち、確かに世界には、
先進国からの愛を待ちわびている後退国、
そして人々がたくさんいる、ということだ。


ならばこそ、ならばこそ、
恵まれた国に生きる我々は、
「自分たちは国のために何ができるか?」ということを考え、
そして「世界の同胞たちのために何ができるか?」ということを考え、

中国共産党からの脅威を打ち破り、
この日本を何としてでも護り抜き、
そしてアメリカや中国にカツアゲされる、
この情けなく、ふがいない日本を、
毅然とした国家に造り替えて、

発展の途上に無い貧しい国々、
あるいはその国に生きる人々に愛を届けてこその日本であり、
日本男児、大和撫子ではないだろうか。



人間は動物ではない。


動物という生き物は、
残念ながら他の存在を敵か味方の二つに分け、
敵だと思えば、毛を逆立て、
牙をむき出し、警戒するが、
しかし味方だと思えば、すり寄ってくる。


しかし人間は心ある愛ある生き物であり、
同胞に対して優しさを降り注ぐことのできる生き物だ。


そして「国」というものが、
「人生の土台」である以上、
「国を愛し、国に奉仕する」ということは、
同時代に生きる人々を愛し、奉仕することであり、
これから生まれてくる子どもたちに奉仕することであり、
そしてさらには、この国をこれまで築きあげ、
護り抜いてきた先人たち、八百万の神々に奉仕することに他ならない。



そしてこの日本が、
カツアゲされることのない毅然とした国家に生まれ変わり、
きちんと先進国の一員として、
国際社会の一員として、
日本がその責任と使命を果たし、
貧しい国々に奉仕することができるような時代が来れば、
結局は、国への奉仕活動は、
世界の恵まれない人々への奉仕へと繋がっていく。


「自分は地球を愛しているから、もう日本を愛することはない」
と、そう考えている方も、

どうやら現代の日本には増えているようだが、
貧しい国に援助を行っていくためには、
豊かな国の技術やお金が必要であり、
人類は未だ進歩の途中にあるために、
パスポート無しで海外に行くこともできない。


つまり自分が生まれた国を愛することと、
地球を愛すること、
そして世界平和を求めることは何も矛盾しない。


自分が生まれた町や県を愛することが、
日本を愛し、そして地球を愛することと全く矛盾しないように、
日本を愛することと、地球を愛し、
そして世界平和を求めることは、
むしろ一致する。


もちろん、間違った愛国心というものもある。


それは日本を愛するあまり、
他の国々、その文化、その歴史、そして他の国の人々を見下したり、
蔑んだりする心であり、
つまりは「執着」だ。


日本を正しく愛し、

他の国々の文化、歴史、人々に対する礼儀礼節を忘れずに、
きちんと敬う心を持ち続ければ、
愛国心は決して悪ではない。


悪なのは国に対して執着するあまり、
礼儀礼節を欠いて他の国々を蔑む心である。


この間違った愛国心、国への過剰な執着心が、

戦争というものを生むのだ。


間違った愛国心は悪である。


どうやら戦前、戦中の日本人の中には、
間違った愛国心を持っていた人も、
幾人かはいたようだ。


その証拠に「チャンコロ」などという言葉がある。


これは中国の方々に対する蔑称であり、
「中国に生まれた」という理由で、
人を蔑んだ時代が、この日本にもあったわけだ。


こんな薄汚い言葉があったことこそ、
やはりかつての日本人の心が間違っていたことの証明であり、
それはすなわち、日本人の心の中にも、
多少なりとも間違った愛国心があったことの一つの証明と言えるだろう。

しかしかつての日本人の中にも、
間違った愛国心を持っていた人がいたからといって、
「愛国心」そのものが間違っているわけではない。


愛国心にも正しいものと、そうではないものがあり、
そして正しい愛国心は人を愛する心であり、
世界の平和を求める心と一致する。


しかしこの国ではいつからか、
「愛国心は悪であり、愛国心を持つと戦争が起きる」
などという誤解があるようだ。



ならば我々日本人は、
一刻も早く愛国心に対する誤解を取り除くべきあり、

そして我々日本人は、
今こそ間違った愛国心や執着ではなく、
正しい愛国心を取り戻すべきである。


そして奉仕の精神でもって、
日本を何としてでも護り、
そしてこの日本の豊かな富、技術でもって、
恵まれない国々に奉仕していくべきではないだろうか。


いつの時代でも、
奉仕を行う召使(めしつかい)と奉仕を受ける主人では、
見た目には主人の方が尊く見えるが、
しかし目には見えない心の世界では、
奉仕を行う召使の方が尊いもの。



日本に生きる我々は、
今こそ、愛国心に対する誤解をやめて、
他人に対する無関心もやめて、
「自分はこれまで日本から多大な恩恵を受けては来たが、
 では自分たちは国のために何ができるか?
 世界の同胞たちのために何ができるか?」
ということを自問自答するべき時代が来ているのではないだろうか?


大和魂が平和を求める魂である以上、
その自問自答の先にこそ、
真実の大和魂があるように私は思う。


中国共産党の脅威がこの日本に迫っている現代こそ、


アメリカや中国の言いなりを続ける情けけない日本となった現代こそ、


世界に日本からの愛を待ち続けている人がいる現代こそ、


我々日本人が己の心の中で自問自答して、

大和魂を蘇らせるべき時代なのではないだろうか。