かつてオオカミに育てられてしまった少女がいた。
彼女は5 、6 才で人間に保護された時、
二足歩行ができずに四つ足で歩き、
手を使わずに犬のように食べ、
暗闇を恐れずに走り遠吠えさえしたという。
そうなのだ。
実はこれが我々人間なのだ。
我ら人間は誰かから教わり、
自分からも学ばなければ、
自分が人間であることさえ分からず、
時にはオオカミのごとく生きてしまうことさえあるのだ。
現実にこの私がそうである。
「私もかつては狼であった」と言えば、
驚かれるだろうが、
しかし確かに私は狼だった。
ただしかし、
私は山や森の中を駆け回っていたのではない。
私は都会の街の中で暴れ回り、
あまりにも傲慢不遜であったために、
親しい人から
「このままでは畳の上では死ねない」
と言われたほどであった。
大和魂などカケラほども無かった。
なぜなら私たち人間は、
何も知らずに泣きながら生まれてくるからだ。
シェイクスピアは「リア王」という作品の中で、
次のように言っている。
「人は泣きながら生まれてきたのだ。
赤子があげるあの断末魔にも似た産声は、
これから始まる苦難に満ちた人生が恐ろしくて、
驚がくしていて、不安でならない孤独な人間の叫びなのだ」と。
このように、
人は生まれながらにして善悪を知っているわけでは実はなく、
時に私のようにオオカミになってしまうことさえあるのだ。
では何も知らずに泣きながら生まれてくる私たち人間には、
果たして何が大切なのか?
何が我々人間の中に、
本当の強さ、
平和を求める精神、
大和魂を育むのだろうか?
孟子という方は、性善説を説いた。
性善説とは、
人間の本性は善であると考える説だ。
人は誰もが皆、
幼子が井戸に落ちそうになっている姿を見れば、
可哀想に思い、助け出そうと走り出すもの。
そうしたことを踏まえて、孟子は
「人には、
他人の不幸を見過ごすことのできない心、
自分の悪を恥じる心などがあり、
教育と自分の努力によって、
その善き心を養い育てることが大切である」
と考えた。
一方、荀子という方は、性悪説を説いた。
性悪説とは、
人間の本性は悪であると考える説である。
曲がりくねった蓬も、
まっすぐに伸びる麻の中に生えれば、
自然とまっすぐに育つもの。
そうしたことを踏まえて荀子は、
「人は生まれつき自分の利益を好み、
他人を妬み、憎む性質を持っている。
だからそのままでは人は争いをおこすが、
しかしきちんと教わり学ぶことで、
人は善き人間と成り、
聖人と呼ばれる方でさえも、
教育と自分の努力によって、そうした人格に到達した」
と考えた。
つまり性善説も、性悪説も、
人間を生まれながらの善い生き物と見るか、
生まれながらの悪い生き物とみるか、
その違いはあるが、
「共にきちんとした教育こそが大切である」
と、そう考えているわけだ。
確かに人間は何も教育を受けなければ、
時には狼にさえなってしまうが、
しかし教育を受けるからこそ、
人間は物事の善悪を知り、
大和魂さえ育むことができるわけだ。
吉田松陰が松下村塾を開いて教育に力を注いでいたように、
大和魂にとって大切なもの、
それは当然のことながら、教育である。
オオカミにさえなりかねない私たち人間の心の中に、
大和魂という名の平和的な強い精神を築き上げてくれるもの、
それは「教育」に他ならない。
暴れ回っていた愚かな私も、
教育によって自らの心の中に大和魂を育んだ。
では教育というものが、
人間に物事の善悪や道徳を教え、
大和魂を育ててくれているのだとしても、
狼にさえ成りかねない私たち人間を、
人間として成長させて、
大和魂を育ててくれる教育とは果たして何か?
一流の科学者は核兵器を作って落としたが、
しかし科学の本には、
核兵器の作り方が書いてあっても、
それを使用する心の善悪は何も記されてはいない。
国語は言葉を教えるものであって、
善悪そのものを教える教育ではなく、
算数や歴史も善悪そのものは何も語らない。
我々日本人は、今、
「これは善であり、これは悪である」と、
その様に判断を下しているが、
しかし我々人間がオオカミになりかねないことを考えた時、
では、その善悪の基準は、果たしてどこから学んできたのか。
かつての日本人は、
多くの方々が大和魂を持って、
強く勇ましく戦っておられたが、
彼らが受けていた教育とは果たして何か?