さて長らくブログの更新を行っていなかったが、
本日をもって、また更新を再開させて頂き、
そしてこれからは、
そろそろ本心を語っていくことにしよう。
私は礼儀礼節を重んじて、
これまで言葉を綴ってきたし、
これからもその姿勢は決して変えていかぬが、
しかし「謙(へりくだ)の美学」を失ってしまった、
この日本において、
時に私の言葉使い、私の姿勢が、
どうやら媚びへつらっているように映ってしまい、
時には、私に対して増長してくる者までいたので、
あえてここで、
「です・ます」調の言葉使いではなく、
「~である」・「~だ」といった、
言葉使いにさせて頂く。
それと、私は貧乏暇無しのため、
コメントの記入に対して、
追いついていかないゆえに、
そのところは、どうか許して頂きたい。
どうやらコメントを読み返してみると、
「宗教」とくに、
わたくしの神仏に対する「信仰心」が、
なにやら話題になっているようだ。
しかしまず、言っておきたいのは、
私はこのブログにおいても、
そして、日々の日常生活においても、
「一度たりとも、宗教、あるいは信仰というものを、
他の人間に無理矢理に強要したことはない」
ということである。
信仰というものは、
心の問題である以上、
そして何ぴとたりとも、
人の心に手を差し込み、心を入れ替えることなどできない以上、
私は、決して誰かに強引に信仰を強要することなどしない。
ただしかし、
かつては、愚かなことに、
ニセモノの強さを、
本物の強さとはき違えて、
渋谷、新宿、六本木などで、
派手に暴れ周り、心を腐敗させていたこの私が、
今、全く異なる人生を生き、
大いなる平和、大いなる調和のために、
身も惜しまず、命も顧みず、
名も望まず、富にもとらわれず、
志は有りながら、無私なる心で戦えているのは、
私の心の中に神仏に対する信仰心があるからである。
私の中にある大和魂、
それを根底で作り上げているもの、
それは神仏に対する信仰心に他ならない。
愛国心だけでは、
志を持つことはできても、
強く生き抜き、戦い続けることはできない。
日本に生まれ、日本に育ち、
そして「日本だけが悪い国だった」
などという間違った自虐史観に染め上げられずに、
正しい真実の歴史を知っていれば、
父や母を愛するように、
誰もがこの美しい日本を愛するものだろう。
かつては日本国内でも、
県(藩)ごとに国を名乗り、
「県が違えば人生が違う」という時代があったが、
しかし先人たちの努力によって時代は進歩し、
今、我々日本国民は、
県の存在をあまり重要視せずに、
他の都道府県に移り住んでも、
十分に生きてはいける。
しかしそれでもまだ、
国そのものを完全に否定して生きるところまで、
人類は進歩を遂げてはいない。
中国の脅威から逃れるために、
ダライラマのように外国に亡命して生きることもできるが、
しかし全ての日本国民が外国に移り住むなど、
仕事の面や経済的な面だけをとってみても、
はっきり言って不可能である。
つまり日本国民は、
日本という国を重要視する必要が確かにまだある。
「地球市民」という言葉を使い、
国の存在そのものを否定している人々に対して、
私は、
「愛によって平和を求めるその心は正しいが、
しかし貴方がたは、中国・北朝鮮に対する知識が乏しく、
明らかに時代を見誤っている。
まだ人類、とくに日本国民は、
国を否定する時代まで進歩を遂げていない」
と、言っておこう。
自虐史観にやられることなく、
そして時代を見誤ることがなければ、
この日本においても、
愛国心ある者は世に多いことだろう。
しかし愛国心だけでは、人は戦い続けることはできない。
「インドの聖女」と呼ばれた、あのマザー・テレサが、
なにゆえに強かったか。
十代で両親のもとを離れ、
その後、祖国が内戦状態になってしまったために、
結局、その別れが今生の別れなったしまった彼女。
異教徒の多いインドの地において、
石を投げられ、命の危険さえありながらも、
しかしそれでも、
彼女の無償の愛は留まることを知らず、
「最も貧しい人々に愛を与えたい」と、
マザーは死ぬまでスラムで愛を与え続けた。
貧しい人々に対する憐れみの心、愛ならば、
地球人類の多くの方が持っておられるだろうが、
しかし彼女ほどの強さとなると、
それは難しいものである。
彼女の強さ、すなわち勇気は、
紛れもなく信仰によるものだ。
そしてそれは何も、
クリスチャンだけに言えることではなく、
この日本を築き上げてきた男たちにも、
同じことが言える。
たとえば坂本竜馬は、
「日本を今一度、洗濯いたし申し候」と、
姉への手紙で書いたが、
実はさらにこんな言葉を続けている。
「事にいたすべくとの神願にて候」
つまり
「日本を今一度洗濯する事こそが、神の願いである」
そう竜馬は手紙に書いたのだ。
高杉晋作も京都で剃髪した時に次の様に詠んでいる。
「西へ行く 人を慕うて 東行く
我が心をば 神や知るらん」
つまり
「政治や武力の世界が嫌いで、
西へ行った西行法師を自分は慕っているけれども、
しかし倒幕の為に、
自分は仕方なしに東へ行かなければならない。
この引き裂かれる心を神だけはご存じだろう」
そう、高杉は詠んだのだ。
福沢諭吉が、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
と語り、
中国から渡った「天」という思想を持っていた様に、
西郷隆盛においても、
「敬天愛人」という信条を持っていた。
「敬天愛人」とは、
「天を敬い、人を愛す」という意味である。
黒舟への密航が失敗に終わった吉田松陰は、
下田にある牢において、人々から酷い扱い受けるが、
次の様な句を詠んでいる。
「世の人は よしあしごとも
いはばいへ 賤(しず)が誠は神ぞ知るらん」
つまり
「私が正しいという事を、
神は知っておられるのだから、
世間の人は何とでも言えばいい」
そう松蔭は詠んだのである。
あるいは吉田松陰は、
こんな言葉も遺している。
「天照豈(あ)に霊なからんや。
先公豈(あ)に神なからんや。」
つまり吉田松陰は、
「天照大神に霊が無いはずもなく、
天照大神は今も霊として必ず存在している。
これまでこの日本を築き上げてきた先人たちが、
神として存在していないはずもなく、
彼らは八百万の神々として、今も必ず存在している」
そして彼は、さらにこう言葉を続けている。
「私の心が未熟であるために、
八百万の神々はしばらく私に苦しみを与えて、
私の志をくじことうするのだろう。
しかしたとえこの天下に、
一人も私を信じてくれる者がいなかったとしても、
それは私にとって、少しも心を動かすものではなく、
私の志がくじけるはずもない。
ただしかし天照大神を始めとする八百万の神々に見捨てられたら、
私にとってそれは耐えられることではない」
そんな様々な試練と戦いながら、
己を鍛え上げていった吉田松陰は、
辞世の句として、こう詠んだ。
「身はたとえ
武蔵の野辺に朽ちぬとも
留めおかまし大和魂」
つまり私の身はたとえ関東の地で滅び去ろうとも、
私の大和魂だけは永遠に滅びることはない。
すなわちこの日本において、
志を持って、大いなる和を求めて、
これまで世の為、
人の為に努力されてきた偉大な方々というのは、
実は心の中において、何らかの形で、
目には見えぬ偉大な存在を「信じる心」、
そしてその存在を「仰ぐ心」を持っていたのである。
言葉を変えれば、
大和魂を持って尽力されてきた方というのは、
必ずや「神仏に対する信仰心」を持っていたのである。
いや、神仏に対する信仰心が、
彼等に勇気を与えて強くしたと、
そう言っても過言ではない。
「自分は強い」と考える人は
多いかもしれぬが、
では、「命を掛けて戦えるか?」
と、問うたらどうだろうか。
プロレスラーでも、空手家でも、
「私は強い」と自惚れている人はいるかもしれない。
しかし命をかけた戦いとなると、
「命まではちょっと」と、
急に弱腰になる者が多いのではないだろうか。
しかもその戦いが、
自分のための戦いではなく、
天下国家のための戦いであり、
他のための戦いとれば、
なおさら弱腰となる人は多いのではないだろうか。
真に無私となり、志を持って戦い続けるためには、
信仰心無くしては不可能であり、
信仰心を持つ者こそ、
命をかけた天下国家の戦いができる。
なぜなら信仰心こそが、
「自分が、自分が」という
不必要な欲望、執着心というものを少なくさせ、
その代わりに人間に無私なる心を授けて、
人を真に強くしていくからである。
信仰心が本当の勇気を人に与えるのである。
「信仰心無き者に、真の大和魂は無い」
これは変えられぬ一つの真実である。
「有志無私」
まぁ、これは私の適当な造語だが、
志を持つことまでならば、
人はその心の個性によって、
人それぞれ方向は違えども、
持つことは割りと簡単にできる。
しかし戦い続ける強さを持つにためは、
「無私」にならなければ持つことはできず、
人から執着心を拭い去り、人を無私にさせ、
人間として強くするためには、
信仰心が無ければ不可能である。
人間にとっての本当の強さとは、
当然のことながら、
老いさらばえて必ず弱くなっていく、
そんな肉体的なものではなく、
宝くじ一枚で簡単に増えたり、
あるいは一夜にして簡単に失ったりする、
そんな富に由来するものなどでもなく、
ましてや地位でも、名誉などでもない。
人としての本当の強さ、
それは、
心の強さ、魂の強さに他ならない。
そして魂の強さとは、
紛れもなく真実の勇気のことであるが、
では真実の勇気とは、
愛の強さのことであり、正義の強さのことである。
愛も正義も無い強さなど、
それは真実の勇気などでは決してなく、
ただ傲慢不遜でイキガッテイルだけであり、
到底、「勇気」という言葉には値しない。
では愛とは何かと言えば、
愛とは、
見返りを求めることなく人に与える心であり、
この心こそ、
我々に人間にとって最も大切な心だろう。
では正義とは何かと言えば、
正義とは、愛の正しい方向性のことであり、
たとえどんなに愛があろうとも、
相手を堕落させ、世の中を破壊する間違った愛ならば、
その愛は虚しいものであり、
愛は正義に裏打ちされてこそ、
人を幸せにし、世の中に平和を打ち立てる。
そして勇気とは、
愛と正義の強さのことであり、
たとえ愛と正義があったとしても、
愛を与えていく強さ、
正義を実践していく強さが無ければ、
この世は何とも寂しい世の中となるだろうか。
こうした本当の強さ、
愛と正義によって戦い続ける本当の強さのことを、
「勇気」と呼び、
そして我々人間が、本当の勇気を持つためには、
無私なる心が必要不可欠である。
「自分が、自分が、」という
執着心が、人から勇気を奪っていくのである。
そして人が真に無私に生きていくためには、
やはり神仏に対する信仰心というものが必要不可欠であり、
神仏に対する信仰心を人に与えるものこそ、
宗教である。
しかし今、日本国民の多くが、
宗教に触れる機会といったら、
結婚式や葬式といった冠婚葬祭、
あるいは神社仏閣などの観光くらいのものである。
それはやはり2500年続く仏教、
あるいは2000年続くキリスト教が、
現代社会に適応し切れなくなっている面もあるであろうし、
そうした伝統仏教が怠けている面もあるであとうし、
もしくは古くから続く宗教が、
すでに役目を終えつつあることも、
原因の一つであろう。
そのために、多くの方々が、
「宗教とは何か?」という問に対する答えを知らない。
その一方で、次から次へと、
新興宗教が起こした悪いニュースが流れてくる。
こうしたことから、
「宗教とは冠婚葬祭をするものだが、しかし新興宗教は悪である」
という、そうした考えを持っている人が大勢いる。
あるいは
「仏教やキリスト教は、
2500年、2000年という時間に耐えてきたから善だが、
しかし新しい宗教は出来たばかりなので駄目だ」
と、そう考えている人さえいる。
しかし宗教がワインではない以上、
「新しいものは駄目だ」という考え方は明らかに間違っている。
こうしたことから、
この日本という国は、
とても信仰心の薄い国となってしまった。
それが結局のところ、
人々を無私ではなくさせ、
互いに日本国民を、
「自分が、自分が」と競わせるばかりで、
この国には本当の大和魂が、もうほとんど残っていない。
その証拠に、日本国民の中で、
一体、どれだけの人間が、
「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」
と、胸を張って言えるだろうか。
この国から、
真の大和魂が失われてしまったがために、
日本は今、中国共産党から少しずつ侵略されつつも、
多くの日本国民がその事実に気づくことなく、
この国はゆっくりと滅びようとしている。
かつてこの国を造り上げ、
築き上げる為に、
身を惜しまず、命を惜しまずに、
努力し、尽力されてきた方々が、
もしも今のこの日本を見たら、
どれだけ嘆き悲しまれるであろうか。
名前が残っている方から、
名前の残っていない方に至るまで、
本当に多くの方々が、
この国に生まれて、そして生きて、
この国を築き上げてきる努力を行ってきたが、
おそらく彼等は今の日本を見て、
こう言うはずだろう。
「私が築き上げた大和の国はもっと美しかった」と。
「私が身命を投げ出した国はどこにいったのだ」と。
「私が愛した日本は、こんなにも簡単に滅んでしまうのか」と。
多くの方々が、そう嘆き悲しむことだろう。
ならばこそ、
この国を何としてでも護り抜くために、
失われた大和魂を蘇らせなければならない。
そしてすでに述べたように、
本物の大和魂というものが、
神仏に対する信仰心無くして存在しない以上、
これから私の蚊ほどの幼い悟りでもって、
「信仰心が人間にとってだれだけ大切であるか」
そして、
「宗教とは果たして何であるのか」
こうしたことがらについて述べさせて頂くことにしよう。