>たまねぎさん
コメント、ありがとうございます。
確かに今の日本は腐っております。
弱肉強食の資本主義の競争社会が続き、
その競争の中で勝った者を、
たとえその人間の心の中に、
たった一カケラの愛が無かろうとも、
「勝ち組」と称してチヤホヤ褒め讃え、
その一方で、職が無い者を「負け組み」と罵る。
まったくもって笑止千万の社会であり、
決してこのまま放置しておいて良いはずがありません。
何よりも、
神や仏も今の日本の現状を、
決して「よし」とはしないでしょう。
私も「平等な世の中を創るべきだ」と、
そう信じて疑わぬ者の一人でございます。
しかし、しかしです。
もしも仮に自分が、
いわゆる「負け組み」の部類に入る人間であったとしても、
「ルサンチマン」だけは生み出してはなりません。
「ルサンチマン」というのは、
弱者の強者に対する嫉妬心です。
なぜなら、このルサンチマンがあったままでは、
その人間こそが、幸せにはなれないからです。
ですから、もしも仮に自分が、
「負け組み」に入るのだとしたら、
「勝ち組」にいる人間の中で、
道徳的にも、倫理的にも、
素晴らしい仕事をされている方に対しては、
素直に、「素晴らしい」と認めてしまうことが大切です。
「素直に認める」この行為が、
人の心の中から嫉妬心を消していき、
明るい心を取り戻していくことができるのです。
さ~てさて、
資本主義と社会主義について、
ごくごく簡単に語らせてもらいますね。
今から160年昔、マルクスは次のように考えました。
「奴隷と市民、農夫と領主、労働者と資本家、
こうした『支配される者』と『支配する者』という階級は常に続いている。
だからこうした社会は暴力を使ってでも破壊し、
階級の無い平等な社会を作るべきだ。
それが社会主義であり、そして共産主義である。
なぜなら労働者たちは、僅かな賃金で、
汗水流して必死に働いているというのに、
資本家はのんびりと優雅に過ごして、
そして莫大な利益を得ているからだ。
つまり資本家が労働者たちを搾取(さくしゅ)しているのだ。
すなわち資本主義社会そのものが間違っているのだ。
社会主義や共産主義の世の中とは、
資本主義が進化した世の中であり、
真の革命とは銃口から生まれるものであり、
暴力というものは、
赤ん坊が生まれる時の陣痛の痛みのようなものである」
簡単に言ってしまえば、これがマルクスの考えたことでした。
マルクスが考えた共産主義の世の中は、
「平等」を求めるために、
国民が共同で財産を持って生産活動(仕事)を行い、
「私有財産」というものが認められていません。
つまり「平等」を重視したために、
個人で財産を持つことができず、
国が財産を持っているわけです。
そして社会主義とは、
私有財産を制限しながらも、
ある程度は認めていて、
工場などの生産手段は、
全て国が管理する世の中であり、
資本主義国家が共産国家になる前段階の、
途中の世の中のことを言います。
ですからマルクスの考えからすれば、
資本主義の進化した世の中が社会主義であり、
そして社会主義がさらに進化した世の中が共産主義なわけです。
マルクスの影響を受けた国は、
ソ連や中国や北朝鮮、
東ドイツ、ハンガリー、カンボジアやベトナムやキューバなどです。
これらの国は、
ある程度は私有財産が認められていましたから、
正確には、
共産主義国家を目指している社会主義国家と言えるでしょう。
そして社会・共産主義を一括して、
「マルクス主義」と言うわけです。
アメリカという自由主義、資本主義の超大国と、
ソ連という社会主義、共産主義の超大国を筆頭に、
かつて世界は真っ二つに別れて、
「どちらが正しいのか?」ということを模索しながら、
激しい「冷戦時代」を戦い抜いてきたのです。
マルクス主義の世の中では、
全ての人が公務員のように国に仕えています。
そして全ての国民が平等であるので、
実は成功もなければ失敗もありません。
それはつまり「出世もなければ失業もない世の中」ということです。
そうした世の中であるために、
社会・共産主義国家では、
人々から「労働意欲」が失われてしまいました。
たとえば第二次世界大戦後に、
GHQ(連合軍の総司令部)が日本にやってきて、
地主から農地を買い取って小作人に与えました。
そして作った農作物が「自分のもの」になると、
人々の労働意欲は上がり、
日本の農作物の収穫量は著しく上がりました。
その一方で、第二次世界大戦後の中国では、
共産党が人民公社なるものを創り、
農家の人々から強引に農地を奪い取って、
国の管理の下で働かせました。
そして作った農作物が「みんなのもの」になると、
人々の労働意欲は下がり、
中国の農作物の収穫量は著しく下がったのです。
当時の中国の人々は言います。
「昔は牛が死んだら泣いた。なぜなら自分の牛だからだ。
しかし今は牛が死んだら喜ぶ。なぜなら肉が食べられるからだ」
やがて中国は、様々な政策の失敗によって、
餓死者が大勢出たことで、改革開放政策を行いました。
そして人民公社を解散して、農地を人々に割り当てました。
そして働いた分だけ農作物をもらえるようにすると、
やはり人々の労働意欲が上がり、
中国の農作物の収穫量は激増したのです。
すなわち「労働意欲」と「生産量」は比例しているわけであり、
自分の生活の責任を自分が背負うと、
労働意欲が上がり、自分の生活の責任を国家が背負ったら、
労働意欲は下がったわけです。
必死にやった分だけ自分に返ってくるのと、
必死ににやろうがやるまいが国が生活の面倒をみてくれて、
同じ結果しか与えられない「平等」な世の中ならば、
必死にやる人が少なくなってしまうのも、よく理解できます。
とくに共産主義国家は「平等」を重視していて、
そして国が管理しているために、
自由に仕事をすることができません。
たとえば「こんな商売をしたら儲かるだろうな」とか、
「ここでこの商売をすれば売れるだろうな」とか、
そうしたことを思いついたとしても、
それを実際に行ってしまえば、
儲かる人、売れる人が出てきて、
「平等」が壊れてしまうために、
自由に実行に移すことができないのです。
それどころか厳しい社会主義経済では、
自分で好きに農作物を作ることさえ、実は許されていません。
こうした世の中である為に、
共産主義を目指す世の中では、
人間にとってとても大切なものが薄れてしまいました。
それは「努力」と「才能の発揮」です。
つまり社会・共産主義の世の中では、
人間が自分の才能を発揮して、
アイデアを出して、自由に起業して、
そして企業努力を行っていくことができないわけです。
松下幸之助やビル・ゲイツのような人は出てきたくても、
出て行くことができない世の中、それがマルクス主義です。
マルクスは「人間の心」まで踏み込んで考えられなかったために、
マルクス主義の世の中は労働意欲が薄れ、
努力や才能の発揮までもが薄れてしまいましたが、
その結果、マルクス主義国家から、
とても大切なものが共に失われてしまいました。
それは「発展」や「繁栄」です。
マルクス主義は、
最終的には貧乏の平等分配を行うことになってしまったわけです。
それにマルクス主義の世の中では、
国が管理して、商品を企画したり、
作ったり、生産量を決めたり、
価格さえ決めているために、
世の中のニーズが見えず、
需要と供給のバランスも非常に悪いので、
あまりにも無駄が多くなってしまったことも、
発展と繁栄が無かったことの理由の一つでしょう。
長いので、次の日記に続きます。