コメントから 「宗教紛争について」 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

>国士無双さん
コメント、ありがとうございます。


しかしイスラム教徒は、
決してアラーのために戦争をしたり、
テロ行為を行っているわけではありませんよ。


この宗教紛争の問題は、
実は三千年以上も時代を遡らなければなりません。


私も宗教に携わる者の一人として、
やはりこの「宗教紛争」という問題を無視することはできません。


また世界の平和を願う者であるならば、
必ず知っておかなければならない、
大切な問題とも言えるでしょう。


ですから、これから私が語る内容は、
世界平和を願う者で、そして宗教紛争をよく知らない者ならば、
必読の一文とも言えるかもしれません。


とまぁ、あえて大げさに言っておりますが、
まぁ簡単に説明しますね。


今から約三千二百年前、エジプトの地において、
ユダヤの民は、エジプト人から奴隷として働かせておりました。


そうした中で、
ユダヤ人の中からモーゼという人が生まれます。


ですから彼の人生は、
奴隷として一生、働かされることを、
運命として約束されていたわけです。


しかも当時のエジプトの王様は、
ユダヤ人が増え過ぎることを望まず、
「ユダヤの赤ん坊を殺せ!」という命令を下しました。


殺されてしまう我が子を不憫に思った母・ヨケベドは、
赤ん坊のモーゼを、葦舟に乗せて川に流しました。


しかし幸運にもモーゼは、エジプトの王様の娘に拾われたのです。


さらに幸運なことに、彼は実の母親を乳母として育てられました。


そして成人したモーゼは、
実は自分がユダヤ人であることを知り、葛藤を始めます。


なぜなら自分も本来ならば、ユダヤ奴隷として育ち、
鞭で打たれながら、
汗水流して働いているはずなのに、
しかし現実の自分は、
エジプト人として、
王宮で優雅に暮らしていたからです。


そんなある日、彼は、
ユダヤ人が鞭で打たれているところを目撃して、
そしてそのユダヤ人を助けようとして、
エジプト人を殺してしまいます。


そして彼はエジプトを離れて、
シナイ半島に隠れて、
ひっそりと住んでいました。


しかしある日、
「エジプトに帰り、ユダヤの民を救え」
という啓示を、彼は神から受け取ります。


そしてモーゼは、
エジプトに帰り、エジプトの王に、
神の言葉を伝えました。


モーゼは、ユダヤ人を解放するように求めたのですが、
王様は聞き入れませんでした。


するとカエルやブヨやアブやイナゴが異常発生したり、
疫病が流行したり、家畜が大量に死んだり、
雹(ひょう)が降って、畑の作物が全滅したりしました。


いわゆる10の災害が起こったわけです。


こうしてエジプトの王様は、
ユダヤ人を解放することにしたわけです。


そしてユダヤ民族は放浪に放浪を重ねて、
その放浪の旅の中で、
モーゼは神から十の戒めを授かりました。


これが有名な「モーゼの十戒」であり、
こうしてユダヤ教という宗教が興っていったわけです。


そしてようやくユダヤの民が辿り着いた土地、
それが現在のイスラエルです。


しかしイスラエルには、
アラブ人がすでに住んでいたために、
彼らユダヤ人は、アラブ人との戦いに勝って、
その土地を奪い取ったと言えるでしょう。


それから千数百年後、
ユダヤの民の中から、
イエスがイスラエルの地に生まれました。


しかし当時のイスラエルは、
ローマ帝国の支配下にありました。


イエスは自ら「救世主」を名乗り、
そして人々に愛を説き、
モーゼから伝わっていた教えを、
ユダヤ人だけのものではなく、
世界万人のものにしようとしました。


ユダヤの民たちは、
最初はイエスを救世主と信じたのですが、
しかし彼らが求めていた救世主は、
愛を説いて、万人のための宗教を新たに興す、
イエスのようなタイプの救世主ではなく、
モーゼのように、
自分たちをローマ帝国の圧政から救ってくれる、
政治的な救世主でした。


そのために、
イエスはユダヤの民から迫害を受け、
最終的には、
「騙しやがって!」とか、
「嘘つき!」などと罵られて、
石を投げつけられ、
唾を吐きかけられ、
そして十字架に掛けられて殺されてしまいます。


その悲惨な光景は、
映画『パッション』にある通りと言えるでしょう。


十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る時、
イエスを救世主と信じ続ける一人の夫人が、
イエスの元に駆け寄り、涙を流すのですが、
しかしイエスは、こう言います。


「私のために泣くのではなく、
 むしろ自分のために泣きなさい」


つまりイエスは、
やがてイスラエルという国が地上から姿を消し、
ユダヤ人が再び流浪の民になってしまうことを、
予言したわけです。


そのイエスの予言とおり、
数十年後にイエスラエルという国は消滅し、
そしてユダヤの民は国を失って、
あちこちにと離散して、

彼らは再び流浪の民となりました。


このユダヤ民族の離散を、「ディアスポラ」と言います。


イエスの死後、
イエスは人々から「救世主」と信じられて、
キリスト教はヨーロッパ中に広がりました。


そしてそれから600年後、
アラブの地に、
ユダヤ教とキリスト教の流れを受けて、
イスラム教という宗教が興ります。


そのために、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、
「アブラハムの兄弟宗教」と呼ばれております。


アブラハムというのは、
彼らが祖先と考えている人物のことです。


その兄弟宗教が、今もなお、
激しい争いを繰り広げているわけですが、
しかしモーセは十戒の中で教えました。


「殺してはならない」と。


許しの愛を説いたイエスも、
「剣をしまいなさい。
 剣を持つ者は剣によって滅びるのです」
と教えました。


ムハンマドも時代を「無智な時代」に逆戻りさせないために、
時には仕方なく剣を持って、
自分たちを迫害する者たちと闘うこともありましたが、
しかしなるべくは闘いを避けておりますし、
コーランでは「許すことは良いこと」と教えています。


つまりイエスやモーセやムハンマドといった宗教家たちは、
当然のことながら、

無意味な殺し合いを否定している、ということです。


ではどうして、

モーセやイエスやムハンマドの教えを学んだ人間たちは、
いつまでも戦争を起こすのか、
その理由を考えた時、その答えは実に簡単です。


それを説明するにあたり、こんな話を紹介してみたいと思います。


ある時、仏陀にこんなことを訊ねた人がいました。


「仏陀よ、貴方の説かれる教えは、
 とても解り易く、そして相手に応じて段階的であります。
 それに教えを学ぶ弟子の方々も、とても優秀そうですから、
 弟子の方々は皆が悟りを開かれるのでしょうね」


それを聞いて、仏陀はこう答えたそうです。


「いや、私の教えを聞いても、

 残念なことに全ての弟子が悟れる訳ではないのだよ」


質問した人は驚いて聞き返します。


「えっ!?これほどの真理の言葉を聞いても、
 それでも悟れない人がいるのですか?」


仏陀は言われます。


「では、貴方に聞くが、
 貴方は旅人にここから城までの行き道を訊ねられたら、
 解り易く道を教えることができるだろうか?」


「はい、できます」


「では、貴方に道を教えてもらった旅人は、必ずその城に辿り着けるだろうか?」


その人は考えてから、こう言いました。


「いや、辿り着ける旅人もいますが、
 中には途中で道に迷って辿り着けない旅人もいます。
 確かに私は旅人に道を教えることができますが、
 正しい道を歩む旅人もいれば、道から反れていく旅人もいます」


仏陀は言います。


「それと同じこと。私は弟子達が解り易い様に教えを説くが、
 しかし教えを聞くのは弟子たちです。
 ですから中には教えを理解して、
 悟りを高める者もいれば、
 中には教えをはき違えて道に迷う者もいるのです」


つまり、

たとえ一流の教師から勉強を教わっても、
時には生徒が赤点を取ることがあるように、
イエスやモーゼやムハンマド、
そして仏陀が素晴らしい教えを残しても、
その教えを正しく理解することができない人々もいるということです。


言い換えるならば、
私たち人間の悟りが足らず、
愚かであり続けると、
悲しいことに争いを繰り返してしまうわけです。


それに宗教が文明が興隆していく上での原点でもあるように、
文明同士の衝突によって、
そこに軋轢が生じることもあります。


それになによりも、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、
アブラハムの兄弟宗教と言われるくらいですから、
イスラム教徒も、実はイエスのことを「イーサー」と呼んで、
とても尊敬しています。


こうしたことから、ユダヤ人は、
「イエスを殺した呪われた民」
として、あちこちで迫害に合ってきたのです。


するとその迫害が、
ユダヤ民族を経済的に強くしました。


ユダヤ人は、
迫害に次ぐ迫害を受けてきたために、
不動産、つまり土地や建物を持つことができず、
すぐに金に変えられる宝石などを持ち、
そして迫害を避けるために情報にも早かったこともあって、
いつしか商売上手な民へとなっていったのです。


そして、
ロックフェラーやロスチャイルドといった、
大財閥を生み出したのです。


20世紀に入って、
アドルフ・ヒトラーは、
国内の経済的な不満を解消することを目的に、
あるいは彼自身のユダヤ人に対する嫉妬もあって、
ユダヤ人を大虐殺しました。


一説には、彼の中にもユダヤ人の血が流れているそうですが・・・


そして戦争の際、
戦費に困った、かつてのイギリスは、
ユダヤ人が自分たちの独自の国を持つことを約束に、
大財閥からお金を出させました。


そして第二次世界大戦が終わると、
虐殺されずに生き残ったユダヤ人たちは、
イギリスとの約束を信じて、
あくまでも勝手に、
再び、「イスラエル」という国を建国したのです。


1948年5月18日のことであり、
まさしくディアスポラを続けて、

「呪われた民」と呼ばれて、

迫害を受けてきた流浪の民が、

約二千年ぶりに国を取り戻したわけです。


しかしかつての三千年前と同様に、
イスラエルの地は、
パレスチナ系のアラブ人が住んでおりました。


ですからまたしても、
ユダヤ人たちは、戦争によって、
イスラエルを建国したわけです。


しかもアメリカには、
大金持ちのユダヤ人が大勢います。


そのユダヤ系アメリカ人が、
アメリカ国内で絶大な権力を持っているために、
アメリカはイスラエルを支援しています。


そのおかげで、

イスラエルは高性能な戦闘機も持っていますし、
核兵器さえ持っていると言われております。


しかしパレスチナ系アラブ人は、
投石や火炎瓶でしかイスラエルに抵抗できません。


一方のイスラエルは、アメリカから購入した戦車で、
大砲をぶっ放すわけです。


住む土地どころか、
夫、息子、兄、弟といった家族を失ったアラブ人がいるわけです。


何とも皮肉なものですが、
かつてのユダヤの英雄・ダビデは、
投石によって強大な敵・ゴリアテと戦ったのですが、
今度は時代を変えて、
アラブ人が強大な敵・ユダヤ人に対して、
投石で戦っているわけです。


ちなみにアメリカがイスラエルを支援していることを非難した、

とあるアメリカのジャーナリストは、

山ほどの抗議を受けて、引退に追い込まれてしまいました。


これがアメリカの現状です。


いつの時代も、無口な大衆よりも、

うるさい少数の方が影響力があるのです。


強引な手法によって、
住むところのみならず、
最愛の人さえ失ったアラブ人からしてみれば、
強大な軍事国家イスラエル、
そしてそれを支援している超大国アメリカは、
憎くて、憎くて仕方が無いわけです。


こうした事実を、

アメリカ国民のほとんどが知りません。


もちろん私、与国秀行は、
断じて無差別テロを認めることはできませんが、
しかしその背景には、
アラブ民族の悲痛な訴えもあるわけです。


大多数のアメリカ国民からしてみれば、
「イスラムテロ」は悪そのものですが、
しかしそのアメリカ国民も、
実は自分たちが働いて支払っている税金が、
今までイスラエルを支援していたり、
アメリカという国自体が、
イスラエルを軍事的に支援していることに対して、
真剣に考える必要が確かにあるのです。


いや、考えなければならない時が来ているのです。


なぜなら、どんな形にせよ、
「イスラエルを支援する」
という行為は、
結果的に、
「パレスチナ系アラブ人を苦しめている」
ということになるからです。


イスラエルを支援するならば、
少なくともそれ以上の支援を、
パレスチナ系アラブ人に行う必要がありますが、
しかしそれをアメリカを始め国際社会が行っていないために、
こうした悲劇が起こっていると言えるでしょう。


また、ただ金銭的・経済的支援を行うのみならず、
こうした民族問題は、やはり、
「人は生まれ変わりを繰り返している」
という転生輪廻の思想が入らなければなりません。


「人はある時は日本人に生まれたり、
 中国人に生まれたり、
 アラブ人に生まれたり、
 ユダヤ人に生まれているのであり、
 どこかの民族を迫害したり、苦しめるということは、
 かつての同胞を迫害したり、
 あるいは未来の同胞を苦しめていることに他ならない」
という仏教的な思想が入り、
一人一人が「悟り」を得ていくからこそ、

民族問題はやがて解決に向かっていくと言えるでしょう。


聖書にこんな話があります。


かつて人々は協力し合って、
高い塔を築き上げて、
天にまで届かせようとしていました。


その様子を見て、神様はこう言ったそうです。


「そんなことを人間が簡単に出来てしまうのは、
 人々の言葉が同じあり、心が通じ合うからだ。
 ならば、人々の言葉をバラバラにしてしまおう」


そして神様によって、
人々の言葉がバラバラになってしまうと、
塔の建設は出来なくなりました。


この話は、こうして人間には神様から、
民族の違い、人種の違い、文化の違い、国家の違い、宗教の違い、
といった「厳しい試練」が与えられた、という物語です。


もしも世界に民族の違い無く、
人種の違い無く、文化の違いも無く、
国家の違いも無く、宗教の違いも無ければ、
人間は互いに壁を作ることもなく、
私たちが生きるこの青くて美しい、
「地球」と呼ばれる惑星は、
争いも無く、飢えも無く、差別もない、
そんな素晴らしい星になっていることでしょう。


しかし残念ながら世界には未だに、
争いがあり、飢えがあり、差別さえもあり、
素晴らしさに欠けています。


「貧困、差別、戦争・・・、地球には多くの悲しみがある」、

この事実こそ、
「人類はまだ試練を乗り越えることができていない」
ということの証明であり、
この仏神より与えられた厳しい試練を乗り越えさせていくためには、
私たち一人一人の人間としての成長、
「悟り」が必要不可欠です。


さてさて、まぁ宗教紛争について、
色々と書いてきましたが、
私がとある特定の宗教を信じた理由は、
大きくわけて三つです。


それはその特定の宗教が、
誰かの金儲けや欲得のために創られた、
間違った宗教などではなく、
仏教やキリスト教、イスラム教、ユダヤ教と同様に、
正しい宗教であることを確認したからであり、
そしてこの宗教が、
私に「悟り」を与え、
私の人間性を高めてくれるものであると確認したからであり、
そしてこの宗教こそが、
長らく続く宗教紛争にピリオドを打ち、
世界に平和を実現することができると確認したからであります。


「正しいものであった」
「人間として成長させてくれる」
「宗教紛争を終わらせ、世界に平和を実現できる」


これこそが、

私がある特定の宗教を信じている理由です。


二十代半ば頃、

私は、

「どうすれば世界は平和になるのだろう?

 どうすれば宗教紛争が終わるのだろう?

 戦争が無くなり、軍事費を後進国の援助に回せば、

 世界から貧困が消えて無くなると言われているが、

 どうすれば紛争、戦争は終わるのだろう?」

と真剣に悩んでおりましたが、

その平和に対する悩みの答えは、

古くに興った宗教の中には無かったわけです。


とある本の取材で、

私は「行きたいところは?」と問われて、

「イスラエル」と答えておりますが、

それは決して伊達や酔狂で答えたのではありません。


宗教紛争の歯止めに、

少しでも役立つのならば、

この命、少しも惜しくありません。


なぜなら、

それこそ本当の大いなる平和を求める魂、

大和魂ではないですか。


「大和魂は我にあ!

 男たちよ、立ち上がれ!」
と堂々と語る者として、当然のことです。


私の夢、それは日本が中国の脅威を回避し、

東アジアに平和が訪れ、

そして宗教紛争が終わる日が来ることです。