慈悲は地球を救う | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

慈悲という言葉の意味を、
知らない人が、
あまりにも、あまりにも、あまり~にも、
多すぎる。


まぁそりゃあ仕方がない。


この言葉の意味を知っていたら、
日本は、そして世界は、
こんなにまで、
心貧しくなってねぇだろうさ。


俺たち人間は、
目の前にいる人に対して、
自分が優しくなることはできるものだ。


それは、
ある意味において、
本人の自由意志に委ねられていると言えるだろう。


では、
「人間は、目の前にいる誰かを、
 自由に優しくすることはできるだろうか?」
と問われた時、
これは、ちょっと難しくなる。


人生というものを、
一つの旅路にたとえた時、
ではどうしたら俺たち旅人は、
目の前にいる村人を、
優しい村人に変えることができるのか?


何をすれば立ち向かう人の心を
優しくすることができるのか?


それは、
目の前にいる誰かに、
愛とか、反省とか、
そうした本質的なことを、

語り伝えることに他ならない。


この行為を、
「慈悲」っつぅんだ。


マザー・テレサのように、
目の前にいる誰かに、
暖かいスープをあげる行為も、
確かに愛だ。


しかしお釈迦様のように、
目の前にいる人のみならず、
たっくさんの人々に
心の教えを説く行為も、
やはり愛であり、
この愛のことを、
「慈悲」って言うわけだ。


イエス・キリストは、
三年間の間に、
様々な心の教えを説き、
愛を語ったが、
ではイエスがマザー・テレサのように、
病院や学校を建てたりしたかと言えば、
イエスは建ててはいない。


ではイエスとマザー・テレサ、
どちらが偉大かと言えば、
それは紛れもなくイエスである。


なぜならイエスは、
病院や学校を直接建てることは無かったが、
しかし彼の教えを受けた人々が、
世界中に学校や病院を建てたからだ。


このイエスの愛が、
慈悲である。


しかしイエスは、
病気治しなども相当やってる。


ここが、
お釈迦様とイエスの違いだ。


だから仏教では、
出家した坊主が、
「マザー・テレサみたいなことがしたい」
と言うと、
「じゃあ貴方、還俗しなさい」
と、
和尚さんから言われてしまう。


還俗ってぇのは、

出家者が、普通の暮らしに戻ること。


イエスは、
慈悲と愛の人だったが、
お釈迦様は、
慈悲こそを重要視しているわけだ。


まぁ今の坊主どもは、
大抵が慈悲の意味も分からず、
葬式の専門家になっているが。


ちなみに、
これも何度も、何度も、な~んども言うが、
お釈迦様は、
一度も、葬式の作法なんて、
弟子たちに教えなかった。


戒名の付け方なんて、
一度も語っていない。


「墓守をしろ」とも言っていない。


お釈迦様も線香は立てたが、
しかし、
それはお釈迦様の生まれた
ネパールやインドは、
非常に蚊などの虫が多いために、
虫除けのために、
蚊取り線香の意味で立てた。


蚊や虫が、
心を落ち着かせて、
自分の心を省みる上で、
邪魔になるからだ。


だから、
もしもインドが寒い土地で、
蚊や虫があまりいなければ、
線香は立てなかっただろう。


つまり、
心清ければ、
線香なんか立てなくとも良いし、
逆に、
心汚れていれば、
線香を何千本立てても、
意味はねぇってことだ。


しかし現代の仏教徒たちは、

お線香を立てることが、

まるで、

人間として正しい行為かのように、

とり行っている。


また、
当然のことながら、
漢文のお経を、
呪文みたいに唱えることもしなかった。


お経を呪文のように唱えることに

意味があるのではなく、
お経をきちんと理解して、
自らの心を正して、
そしてその心の教えを人々に伝えていく、
慈悲という愛こそ、
仏教は大切にしていたんだ。


これを上求菩提、下化衆生
(じょうぐぼだい、げけしゅじょう)
と言うが、
お釈迦様は、
誰にでも分かる平易な言葉で、
心について語っただけさ。


なぜなら一人一人が心を正し、
優しい人へと成長を遂げていくことで、
その人の幸せと、
そして世界の平和があるから。


確かに俺たち人間は、
自由に目の前にいる誰かの心を、
変えることまではできない。


しかし俺たち人間には言葉がある。


人間は言葉や行動や態度によって、
目の前にいる誰かに対して、
何らかの影響を与えることまでならばできる。


井戸というものは、
長く使っていないと干からびて渇いてしまうことがある。


しかしその井戸の中に、
僅かな水を投げ込むことによって、
その水が誘い水となり、
井戸の底から水が次々と溢れ出してくることがある。


これと同様に俺たち人間は、
自分から慈悲という水を、
誰かに投げかけることによって、
それが誘い水となり、
立ち向かう人の心から、
水が溢れ出してくることがある。


慈悲という優しさによって、
優しさが滲み出てくることが人にはあるわけだ。


真実の優しさ投げかけられて、
投げかけられ続けて、
それを永遠に無視し続けることなんて、
俺たち人間が人間である以上、
できやしない。


確かに、
優しさを取り出すことが簡単な人もいれば、
優しさを取り出すことの難しい人もいるかもしれない。


いつも愚痴や不平不満ばかりで、
「心穏やかに生きる」
という幸福感を忘れている為に、
優しさを取り出すことの難しい人もいるかもしれない。


しかしどんな人であっても、
心の奥底には必ず優しい心があるものだ。


そうであるならば、
立ち向かう人の優しき心に、
慈悲が届きさえすれば、
その優しさが誘い水となって、
優しさが滲み出てくることがある。


人には優しい心にまで届く、
そんな水が必要なわけだ。


イエスはある時、
井戸に水を汲みに来た女性にこう言った。

「この水を飲む者は誰でも再びまた渇きます。
 しかし私が与える水を飲む者は、

 誰でも決して渇くことがないのです。
 私が与える水は、

 永遠の命を湧き出す泉と成るからです」


イエスが人々に与えた水、
それは喉を通って胃に伝わっていく水ではなく、
人々の心に直接伝わる水だった。


そしてその水は、
どんなに科学が進歩して、
時代が変っていこうとも、
決して古くなることのない、
常に新鮮な「真理」という名の水だった。


つまり「真理」を人々に述べ伝えたり、
もしくは「悟りの縁」を与えたりする愛のことを、
仏教では「慈悲」って言うわけだ。


そして井戸を掘り起こすように、
心の教えを学び、

心を静めて、

自らの心を掘り起こし、
智慧をあふれさせていくことを、
上求菩提と言い、
そしてその智慧を、

慈悲によって人々に分け与えることを、
下化衆生と言うわけだ。


「愛は地球を救う」

って良く言うが、

慈悲こそ地球を救うんだぜ。


なぜなら慈悲は、

愛を増やすんだから。