ある人のために。 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~

ある人のために、未熟者の私が即興で創った童話です。


しかし童話といっても、中に流れているのは、

私がこれまで学んできた仏教ですから、

決してバカにはできない内容のはずです。


何かを掴み取ってくれたら幸いです。




ある時、ラクダを引いた二組の夫婦が、
それぞれ砂漠を旅していました。


一つの夫婦は賢い夫婦で、
一つの夫婦は愚かな夫婦でした。


その夫婦は、互いに別々で、
幸せの青い鳥を探していたのですが、
とある村にたどり着きました。


愚かな夫婦を見かけた村人が言います。

「せっかくラクダを引いているならば、
 どちらかが乗ればいいのに。
 もったいない」


それを聞いて、愚かな夫婦は、
妻がラクダに乗ることにしました。


すると別の村人が言います。
「この砂漠の中で、妻だけ乗って、
 夫を歩かせるとは、それで夫を立てているのか?」


それを聞いて、愚かな夫婦は、
今度は、夫がラクダに乗ることにしました。


するとまた別の村人が言います。
「体力がある男の夫が乗って、
 体力がない妻に乗らせないとは、
 なんと薄情な夫だろう」


それを聞いて、その愚かな夫婦は、
今度は、夫婦二人でラクダに乗ることにしました。


するとまたまた別の村人が言います。
「なんて酷い夫婦だ。
 この暑い砂漠の中を、二人で乗るなんて、
 それじゃあラクダが可愛そうだ」


仕方なしその愚かな夫婦は、ラクダを担いで砂漠を歩いたそうです。


しかし賢い夫婦は、
どの村人の意見にも左右されることなく、
交代で乗りました。


二人が同時に疲れたら、時には二人で乗った時もありました。


そしてラクダを休ませるために、
時には二人で歩いたことさえありました。


賢い夫婦は、言います。


人の意見はそれぞれだ。


しかも、その場だけで、安易に判断して、
そして発言してくる人も少なくない。


自分が必ずしも正しいわけではなく、
そして他人が必ずしも正しいわけではないから、
人の意見を聞くことも大切だが、
しかし人の意見を聞かないことも大切だ。


こうして賢い夫婦は、
愚かな夫婦よりも先へ進んでいきました。


少しすると、賢い夫婦は、とある別の村に辿り着き、
その村で休むことに決めました。


賢い夫婦は村人にたずねました。
「この村の人たちは、良い人ですか?」


村人は、たずね返しました。
「あんたらが、前にいた村はどうだった?」


賢い夫婦は、ニコニコと笑顔で答えました。
「はい、とても優しくて、そして親切で、
 良い人たちばっかりでした」


すると村人は答えました。
「ここの村の連中も良い人ばかりさ。
 アンタらもゆっくりとしていくといい」


賢いその夫婦は、旅の疲れをゆっくりと癒してから、
その村を旅立っていきました。


すると同じように、
愚かな夫婦が、その村に辿り着きました。


愚かな夫婦も、その村で休んでいこうと決めて、
村人にたずねました。
「この村の人たちは、良い人ですか?」


村人は、たずね返しました。
「アンタらが、前にいた村はどうだった?」


愚かな夫婦は、眉間にシワを寄せて、答えました。
「我々が前にいた村は最悪だった」

そしてその愚かな夫婦は、こくこくと、

自分たちが前にいた村の悪口を言い続けたのです。


すると村人は答えました。
「ここの連中も悪い奴ばかりさ。
 だからアンタらも気をつけたほうがいい」


すると愚かな夫婦は、旅の疲れをひきずったまま、
その村を旅立っていきました。


賢い夫婦は話し合います。


立ち向かう人の心は鏡なり。


私たちの目の前にいる誰かは、
私たちの表情、言葉、行動に必ず反応するものだ。


なぜなら人は石ではないから。

人は木ではないから。


人間は木石ではなく、心の生き物であるために、
表情、言葉、行動に、必ず何らかの反応をする。


私たち人間が発する、表情、言葉、行動の中に、
優しい想いがあるのか、
人を労わる想いがあるのか、
人を許す想いがあるのか、
それとも、
傲慢な想いがあるのか、
人に冷たい想いがあるのか、
人を裁く想いがあるのか、
もしくは
何も想いが含まれてはいないのか、
そうしたことを無意識のうちに、
読み取っているのが、私たち人間だ。


だからこそ、
「立ち向かう人の心は鏡なり」
ということが言える。


こうして賢い夫婦が旅を続けていると、
また別の村に辿り着きました。


しかしその村の人たちは皆、
とても悪口や誹謗中傷が大好きで、
その賢い夫婦を見るなり、
何もしていないのにも関わらず、
見ず知らずの彼らに
次々と罵声を浴びせました。


しかし賢い夫婦は、何も気にすることなく、
焦ることなく、平静心のまま、
その村を素通りしていきました。


今度は、その村に愚かな夫婦が辿り着きました。


するとやはり愚かな夫婦も、
その悪口が大好きな村に辿り着き、
同じように、何もしていないのに、
見ず知らずの人たちから、
次々と罵声を浴びせられました。


愚かな夫婦は、焦り、取り乱し、必死になって、
「私は悪くない、誤解しないでくれ!」
と彼らに弁解し続けました。


すると彼らは、
悪口が大好きなために、
人の傷口に塩を塗るように、
ますますその悪口は酷くなりました。


その村は、誰も旅人が寄り付かず、
たとえ立ち寄ったとしても、
ほとんどの夫婦が休むことなく素通りしていくために、
その愚かな夫婦たちが旅立ったのを最後に、
数年後に村そのものが消滅してしまいました。


賢い夫婦は言いいます。

もちろん、私たちの目の前にいる誰かが、
私たちの本当の姿を、
正しく映し出すとは限らない。


なぜなら、
確かに私たち人間の中には、
心にチリや垢が付着していて、
心が曇っている人もいるからだ。


人の心は曇ることがある。

誰もが心清く生まれてくるが、
しかし、この地上で、
幾年、幾十年と生活を続けていくうちに、
人は心を曇らせてしまうことが確かにある。


だから自らの心の曇りを取り除くことも、もちろん大切だが、
しかし「心を曇らせている人に出会うこともある」
という真実を知っておくことも大切だろう。


そして心を曇らせている人というのは、
人を正しく見ることができない。


それはちょうど、曇ったガラスでは、
その向こう側を正しく見ることができないように、
曇った心は人の真の姿が見えないのだ。


そしてそうした心曇らせた人が発する言葉は、
必ず人の欠点や過ちを裁くものだ。

悪口が出てくる。


そうした心曇らせた人の表情、言葉、行動は、
必ず憎しみ、妬み、恨み、怒り、
といったこんな想いが混ざっているだろう。


だからもしも私たちが、
眉間にシワを寄せて、
人の悪口ばかり言い続けるような、
そんな愚かな夫婦になってしまったら、
私たちも己の心を見つめなおし、
そして反省して、
心のチリや垢を取り除くことが大切だろう。


しかしたとえ私たちの心が晴れていようとも、
先ほどのように、心曇らせた村人に出会い、
悪口を言われたり、聞かされたり、
冷たくされることもあるかもしれない。


しかしもしも天に誓って、
私たちの心に汚れが一切無いのであるならば、
心を曇らせているのは、目の前の村人に他ならない。


そうであるならば、目の前にいる村人の
それらの言葉を気にしないことも、
あまり耳を傾けないことも、
時には鈍感を装うことさえも、
必要なのではないだろうか?


心を平静に保つことこそ、

人生には大切なのではないか?


なぜならその悪口や誹謗中傷に反論すれば、
泥沼化した、悲惨な戦いが繰り広げられるだろうし、
言い訳をしたところで、
ますます相手は付け上がるかもしれないからだ。


しかしやがて真実は明らかになり、
どちらが正しく、どちらが間違っていたのかは、
それは歴然となっていくことだろう。


つまり本当に大切なのは、
自分の心だ。


自分の心にチリや垢がもしも無いならば、
穏やかな表情が出てくるはずだ。

人を労わり、思いやる言葉が出てくるはずだ。

人に優しい行動が取れるはずだ。


しかしもしも自分の心にチリや垢があるならば、
冷たい表情、あるいは厳しい表情が出てきてしまうだろう。

人をさげすみ、自分勝手な言葉が出てきてしまうだろう。

人に傲慢な行動を取ってしまうことだろう。


自分の心が美しいままか、
それともいつしか汚れてしまったか、
それを点検するのは、
そんなに難しくない。


自分の心に去来した「想い」
そしてその「想い」が形となって、
表情、言葉、行動に表れてくるのだから、
これらを点検してみれば良いのだ。


どんな想いをしたか、
どんな表情をしたか、
どんな言葉を発したか、
どんな行動をとったか、
これを点検してみれば良い。


点検してみて、心にチリや垢が付着してたら、
反省によって、
それを取り除けば良いのではないだろうか?


つまり他人の心が美しいか、汚れているか、
それが問題なのではなく、
自分の心が正しいか、間違っているか、
優しい表情で、優しい言葉を発しているか、
冷たい表情で、冷たい言葉を発しているか、
これこそが最も大切なのかもしれない。


賢い夫婦が旅をしていると、
探しても、探しても、村は見つかりませんでした。


二人の足はクタクタに疲れ果て、
水筒をのぞいてみると、
僅かしか水がありません。


しかし賢い夫婦は、
互いが互いに、相手のことばかり先に考えて、
相手に先に水を飲ませようとします。


すると不思議なことに、
残り僅かしかなく、
すぐに無くなってしまうはずの水筒が、
止めどなく、いつまでも、いつまでも、
水が溢れ出してくるのでした。


愚かな夫婦も、、やはり探しても、探しても、
村は見つかりませんでした。


そして彼らもの水筒も、やはり残り僅かでした。


しかし愚かな夫婦は、
互いが、互いに、「自分が、自分が」と、
自分のことばかり先に考えて、
自分が先に水を飲もうと争い合っています。


すると二人は水筒を落としてしまい、
水は砂漠の砂へと消えていきました。


賢い夫婦は、悟りました。


人生という旅路の中で、
私たち旅人は、孤独という名の砂漠に
迷い込むこともあるかもしれない。


誰に愛を与えることもできず、
誰からも愛されていないように感じる、
そんな時も訪れるかもしれない。


喉がカラカラに渇いて、
足はクタクタに疲れ果てることもあるかもしれない。


持っている水筒には、
わずかな水しか残されていない状況に追い込まれるような、
そんな厳しい窮地に追い込まれることさえ、
もしかしたらあるかもしれない。


しかしたとえそうした状況に追い込まれることがあったとしても、
自らの心の過ちを素直に悔い改めて、
心の曇りを取り除き、
そして
「たった一滴でもよいから、
 誰かにこの残された僅かな水を分け与えよう、
 そうして誰かの心を満たそう、
 一握りの愛を与えて生きていこう」
と、そう思うことが大切なのではないだろうか?


賢い夫婦が、そう悟ると、
砂漠と見えていた景色が変わっていきます。


渇いた砂は、水気ある土に変わり、


厳しくジリジリ突き刺し、照りつける太陽は、

緑溢れる木々の隙間から射す、優しい木漏れ日に変わり、


木にはたわわに実った果物がなり、


木の枝には赤や黄色の鳥が鳴いてさえずり、


目の前には美しい湖がありました。


砂漠と見えていたのは、

夫婦が作り出した幻影でしかなく、

あたりは生存の難しい砂漠から、
緑溢れる豊かな森へと一瞬にして変わっていったのです。


悟った夫婦は、家に帰ることに決めました。


二人の旅はまだまだ続きますが、互いに手を取り合い、
仲良く家に帰っていきました。