かつの日本男子の多くが、
大和魂を持っていたわけだが、
そうした中で、
江戸時代中期に、
「武士道とい云うは死ぬことと見つけたり」
と主張された方がいた。
「葉隠れ」で有名な山本常朝(じょうちょう)だ。
じゃあかつての男子たちが、
何のために死を覚悟していたのかといえば、
それは「大義」に他ならねぇ。
オイラたち人間は、
家族や友人や恩師などの多くの人に囲まれて生きているから、
そうした人々との「義理」や「人情」を重んじることも、
当然ながら大切だ。
だが大和魂が、
身近な人々に対する義理や人情と、
天下国家に対する大義、
どちらを大切にしているかといえば、
それは大義に他ならない。
吉田松陰は親や友を遺して、
先に命尽きる覚悟で、黒舟に密航した。
坂本竜馬も、当時、脱藩は死罪どころか、
親兄弟にも危害が及ぶ恐れがあったというのに、
やはり二十六歳という若さで、
今生の別れになる覚悟で脱藩した。
このように、義理や人情を重んじることは大切であり、
彼らが義理や人情をかろ軽んじたわけではねぇが、
しかし小さな義に縛り付けられていたら、
人は天下国家に対する大義を見失っちまう。
だから大和魂とは、
義理や人情を軽んじる精神では決してないが、
しかし私情を捨てて、
大義を貫き通す精神だ。
そして天下国家という大義を想う中に、
真の「志」というものがある。
この「志」という漢字は、
「士」と「心」という二つの漢字から成り立っている。
「士」というのは「人物」のことであり、
ここで言う「人物」とは、「人格者」のことだ。
つまり「徳高い人」ってことさ。
だから徳高き人物が想うことを、
「志」というわけだ。
じゃあ、そうした徳高き人物が、
果たして何を想うのかと言えば、
それは当然ながら、
富や名誉や地位や快楽といった己の事などではなく、
私情を捨てて、
天下国家といった大義であり、
公の事に他ならない。
なぜなら大義や公のことを何も考えずに、
己のことを第一に考えて、
そして小義に縛り付けられて、
身動きが取れない時点で、
すでに人格者とは言えないからだ。
確かに、
「医学を志す」とか、
「学問を志す」とか、
そういった言葉の使い方も間違ってはいないが、
しかしやっぱり、
「志」というこの言葉の中には、
「天下国家」といった大義に対する想いが含まれている。
「遊びや快楽を志す」とか、
「富や名誉や位人臣を志す」とか、
な~んておかしいでしょ?
つまり天下国家という公に対する義のことを大義と呼び、
そして大義を想うことを「志」と言うわけだ。
そして実際に志を持って、
天下国家に働く人物のことをまた「志士」という。
だから大和魂とは、大義に対する真の志に他ならず、
そして志士の精神に他ならねぇ。
この日本に足りないもの、
そりゃあ志士だ。