今、日本人が知らなければならないこと。 その6 | 中国に侵略されている日本を護り抜け

中国に侵略されている日本を護り抜け

~この日本には、もう国を護とうろする男はいないのだろうか。武力衝突だけが戦争ではない。すでに中国共産党による情報の戦争、そして侵略は始まっている。眠っている男たちよ目を覚ませ。大和魂よ、蘇れ!そしてこの美し国を護り抜け!~


与国秀行の徒然日記

アメリカと中国のプロパガンダにまんまと引っかかって、
どうやら鳩山首相は、南京に行って、
まだ謝りに行くらしい。


かつて西ドイツのヴィリー・ブラント首相が、
ユダヤ人の犠牲者に対して行ったように、
もしかしたら、あの首相、土下座までするかもしれない。


そしたら日本は、ますます中国に頭が上がらなくなるな。


移民を受け入れて、選挙権を認めて、国は崩壊だ。


こんな話がある。
「日本には正体不明の鳥がいる。
 中国はその鳥を、カモだと思っている。
 アメリカはその鳥を、チキンだと思っている。
 その鳥自身は、どうやら自分をハトだと信じているようだ。
 しかし実際はタカよりも恐ろしいガンであるが、
 しかし九官鳥のように『友愛』という言葉の意味も分からず、ただ連呼している」


な~んで日本がこんなことになってるか、
それは実は日本の中にも、
アメリカと中国のプロパガンダに、
まんまと乗っかってる人々がいらっしゃるからだ。


それがいわゆる「サヨク」と呼ばれる連中だ。


彼らは「日本は戦争を行った悪い国」って本気で考えていて、
そしてそうした「自虐的な歴史観」ばかり、
世の中に広めようとしていらっしゃる。


まったく嫌になっちまう。


そしてその連中の思惑通り、
多くの日本人が騙されて、
「日本は悪い国」だと考えているようだ。


しかしどうか知って頂きたい。

「正義」というものは、
人、時、場によって移り変わるということを。


善悪というものは、
実は「これは善」、「これは悪」と、
二分化することができない、ということを。


たとえば銃を打つことは、
善だろうか、悪だろうか?


確かに街中で意味も無く銃を撃てば、
それは、まぎれもなく「悪」だ。


では独裁者が核のボタンを押して、
今にも人類を滅ぼそうとしていて、
そしてその独裁者を銃で打つのはどうだろうか?


薬を飲むことは善だろうか?悪だろうか?


たしかに意味も無く薬を飲んで、
ラリることは悪だが、
病気で療養中の人が薬を飲むことは悪にはならない。


あるいは食事を食べることは善だろうか?悪だろうか?
栄用意不足の人が食事を食べることは、
まぎれもなく善だが、
しかし医者からダイエットを薦められている人にとっては、
必ずしも善とも言えない。


このように、善悪というものは、移り変わるんだ。


正義というものは、固定されているものではない。


だから難しい。


では戦争は善だろうか?悪だろうか?


確かに他国を侵略して、人々から利益と自由を奪うならば、

それはまぎれもなく悪だ。


確かに戦争は憎むべきものであり、
決して美化すべきものではないが、
しかし自分の国の人々が利益と自由が奪われそうであったら、
時に「守る」という理由から、
戦争でさえも正義になる。


だから世界中が汚染されていた、
「白人優越思想」を打ち破るためにも、
かつての日本にも正義はあった。


確かに日本には過ちもあったが、
しかしアメリカよりは、はるかに日本に正義があった。


しかし多くの人々が、
アメリカと中国のプロパガンダに引っかかってしまい、
そして少し進歩を遂げた現代の情報戦争の価値観でもって、
帝国主義の時代を見つめている。


「戦争」という行為だけを見つめて、
「日本は悪」と決め付けて、
当時の時代背景、人々の思惑、国の状況をまったく考慮していない。


「アメリカも悪いと言っているし、
 中国も悪いと言っているし、
 学校でもそう習ったから、
 やっぱり日本は悪い国だ」

と、何も疑うことなく、

多くの日本国民が信じ込まされてしまっているのだ。


こりゃあまったく困った。


日本男児たちよ、
このまま私たちが眠り続けていたら、
日本はホントに滅びるぜ?


いや、中国の一つの自治区になっちまう。


確実にな。


ならば日本人が持っていた「和の心」を復活させるしかねぇ。


なぜ世界には、自由も無く、平和も無く、
繁栄も無い国を、人生の土台として生きている人々が大勢いる一方で、
私たち日本人は、
自由があり、平和があり、繁栄がある国を、
人生の土台にして生きていくことができるのか、
ということを考えると、
それはかつての日本には、
他の国々には類を見ない、素晴らしき精神が根付いていたことが自然と分かる。


「日本」という名の私たちの人生の土台は、
決して偶然に作られたわけじゃない。


明治時代の政治家である板垣退助という方は、
襲われて殺されそうになった時、
「板垣死すとも自由は死せず」と語り、
「たとえ自分が死んでも自由民権運動は終わらない」
と、そう訴えたそうだが、
今、日本という国があるのは決して偶然じゃない。


そして日本に自由や平和や繁栄があるのも、決して偶然じゃないんだ。


実は先人たちが努力に努力を積み重ねて、

時には身も命も惜しまずにこの国を築き上げて、

そして時には身も命も惜しまずにこの国を守ってきた。


私たちが生まれた時には、
すでに当たり前のように日本があり、
そして自由、平和、繁栄があり、
そしてそんな国を私たちは人生の土台にして、
これまで生きてきたが、
しかしそれは決して当たり前でもなければ偶然でもなく、
そこには先人たちの汗と涙と血の努力があった。


そしてその努力の根っこには、
日本独自の素晴らしい精神があった。


その素晴らしき精神とは、「和の心」さ。


聖徳太子が十七条憲法の第一条で、
「和を以って貴しとな為し」
と述べたように、この国は昔から
「和」とうものを重んじる国だった。


「和」というのは平和の和であり、
調和の和であり、
家族の和、友人同士の和、
企業の中の和、社会の和、
そして世界の和、心の和、「和」には様々な和がある。


では「和」とは何かと言えば、
「秩序」のことであり、
秩序が無い状態を「混沌」と言うんだ。


そして「平和」という言葉を、
「和が平らである」と書き、
「調和」という言葉が、「和が調っている」と書くように、
秩序が平らかで調っている状態のことを、
平和とか、調和とか表現する。


だから「平和の反対は戦争である」
と表現することがよくあるが、
こりゃあ、ある意味において間違った表現だ。


なぜなら日本は今、軍事的な戦争は行っていねぇが、
しかし確かに心貧しい時代が続き、
混沌としていて、
決して「和が平らかな時代」とまでは言えないからね。


ほいじゃあ「和らぎの精神」て何か、
もう少し詳しく述べてみたい。


かつてこの国に「幕末」と呼ばれる激動の時代があったが、
その時代をたとえに使って、説明してみたい。


幕末と呼ばれるあの激動の時代にも、
多くの方々が生きていた。


その中には幕府を守ろうと立ち上がった方々もいた。

たとえば「新撰組」と呼ばれる方々で、
彼等は自分たちこそ正義だと信じて、
幕府を倒さんとする勢力と命を捨てて闘った。


彼等がその時代の秩序を守るために闘ったことを考えると、
彼等もそれなりに和に生きたと言えるだろう。


しかしその一方で、
幕府を倒そうと立ち上がった方々も大勢いた。


日本を外国に侵略させないため、
そして身分のない平等で自由で繁栄ある日本を造るために、
立ち上がった方々がいたんだ。


吉田松陰や坂本竜馬や木戸孝允などだ。


かつて日本は「藩」と呼ばれる個々の国が立ち並び、
「士農工商」と呼ばれる身分制度があった。


武士が一番偉くて、
百姓町人はたとえ自分の家で飼っている馬であろうとも
乗ることは許されなかった。


まぁなんともつまらん時代だ。


身分低い人々は、縁もゆかりも無い武士に対してでも、
身を低くして頭を下げ、道で会えば道を譲り、
店で会えば席を譲らなければならなかった。


身分低く生まれた者は必死に努力しても、
その努力がむく報われることは少なく、
貧しく苦しい生活を強いられることもあったが、
その一方で、身分高く生まれた者は大した努力をしなくても、
豊かな生活を過ごして遊んで暮らすことさえできた。


たまたま生まれついた家の身分が高ければ、
その身分にあぐらをかいて贅沢をし、
そうしたうぞう有象無象のアホたちが権力を握って、
日本を腐らせていたわけだ。


そんな面白くない時代であるならば、
国が栄えるはずもない。


この日本においても、わずか百数十年前には、
そんなくだらない時代があったんだ。


そしてそんな身分社会の時代に、
ペリーは黒船を率いてやってきた。


弱肉強食の帝国主義の時代であるとともに、
努力しても報われない時代だから、
日本が隣の中国のように、
欧米列強に植民地にされてしまうことなど、
もう誰の目にも歴然であった。


まさしく国難だ。


そうした中で、
不平等で不自由な面白くない時代をだは打破して、
そして外国の侵略から日本を守り、
努力した者は報われる豊かで強い国を造るために、
幕府を倒そうと立ち上がった方々がいた。


幕府を守らんとする勢力が
「秩序を守ろう」と生きたとするならば、
「秩序を一度打ち崩して新たな大きな和を造り出し、
 素晴らしい時代を切り開こう」
と闘った方々は、
当然ながら「和」に生きたんじゃあない。


彼等が生きたもの、それこそ大きなわ和、つまり「大和」だ。


源氏物語に出てくる「大和魂」という言葉は、
我が子をどの様に育てたら良いのか悩んでいる主人公が、
均整の取れた感覚を身に付けさせてあげたいとして、
その均整の取れた感覚のことを、
紫式部は「大和魂」という言葉で現している。


後拾遺和歌集で使われている「大和心」も、
軍国主義などとは、全く違う使われ方をしている。


すなわち「和」を何よりも貴み、
小さな「和」を打ち崩して、
「より大きな和」を打ち立てようと大調和を求める心、
これこそが日本古来より伝わる「大和の心」であり、
かつて「大和の民」と呼ばれた国の心であり、
青き山々が連なり、「真秀(まほ)ろば」とも称された
美し国の精神だ。


しかしアメリカは、この大和魂を恐れた。


あまりにも日本男児が強かったから。


復讐されたら、たまったもんじゃねぇと考えた。


だから日本を骨抜きにするために、
アメリカはGHQを使って、そして日教組を通して、
日本から「和の精神」を奪いとった。


そしたらまんまと日本は、

右に左にただよう、

クラゲになっちまった。


そしていつしか日本人は、
「羊の群れ」だと思われるようになった。


「鍵の掛かっていない銀行」

だと思われるようになっちまった。

江沢民は言ったよ。

国家主席在任当時、外国に駐在する大使を全て集めて、
堂々とさ。


「日本という国はもはや政治大国にはなりえない。

 しかし日本は経済、技術においては大国であるから、

 それらの利益を利用することが中国にとって望ましい。

 そして我々中国が、それらの利益を日本から引き出すためには、

 日本の国柄を利用することが良い。 

 そして日本という国は押せば引く国であるのだから、

 日本に対しては歴史問題を終始強調し、永遠に突き付けていくべきである」


しかし本来の日本人は、

そんなにやわじぇね。


押せば引く国?


ふざけるな、

この日本という国はな、

絶えがたきを絶え、

忍びがたきを忍び、

押されても引くことの無い国だ。


その証拠に、
かつて聖徳太子は小野妹子を隋(当時の中国)へ送り、
「日、出ずるところのてんし天子、
 ひ日没するところのてんし天子へ」という手紙を持たせた。


そして相手の国の皇帝に「小国が何をぬかすか」と、
怒らせたことがある。


しかしそれは、
「大国から比べれば、たとえ我々の国が小国であろうとも、
 大国に対しても決して媚びへつらうことはしない」
という、
我が国の誇りの現れであり、
そして「先を歩む優れた他国から学ぼう」という、
形を変えた謙虚さの現れでもあった。


こうして日本は、中国の冊封体制から抜け出したんだ。


だぁがこの聖徳太子とは全く逆の精神構造を持っているのが、
カモでチキンでガンの鳩山だ。


民主党の鳩山首相は、
自分たちの政権交代劇を、
江戸幕府を倒した明治維新になぞらえて、
「平成維新」と名づけた。


しかし現実は、巨大な黒舟が迫っているように、
中国の覇権主義が訪れていて、
そして井伊直弼が志士を処刑して、
勝手に外国と不平等条約を結んだように、
浅はかな友愛外交を掲げて、
「中華政党」と馬鹿にされる民主党政権こそ、
日本国民が今、一丸となって倒されなければならない江戸幕府だ。


日本男児たちよ、
俺たち男が、

カネだ、オンナだ、酒だ、野球だ、サッカーだ、格闘技だと、

あまりにも平和ボケを続けていたら、

この日本は無くなっちまうぜ。


俺たちの人生の土台が、今、

不正義の国によって、壊されつつあるんだ。


それでもいいんかい?


今、俺たちは、

無関心を続けて、国が崩壊していくか、

あるいは人任せにして、自分は知らんぷりで国を崩壊させていくか、

それとも男子としての公の使命を果たすべきか?

こうした選択が迫られているんだ。