私は常々
「友こそ人生の財産である」
ということを言っております。
それに今の私は貧乏暇無しで、
確かに友しか財産がありません。
しかし「友はワインでも米でもない」
という私の造語を、 私はとても気に入っています。
これは、ワインが古いほど値打ちが高く、
米は新しいほど値打ち高くとも、
友は新しさや古さではなく、
心の繋がりであって、
時間など全く関係ない、
という意味です。
友を大切にし、
義理や人情を重くみている私でありますが、
しかし私はもっと大切にしているものがあります。
それは天下国家に対する「大義」とか、
「世を良くしていきたい」という「志」とか、
そういったものです。
今日、自ら命を絶ったオッサンも、
住む家が無くなって、
漫画喫茶や冷たいアスファルトで寝ている兄ちゃんも、
イジメを受けて、学校に行きたくても行けない不登校になった少年も、
何度も何度も、腕に刃物をあてて、リストカットをやめない少女も、
もう何年も家を出ることなく、ひこもり続けている人も、
みんな、どこかの赤ちょうちんで、
一杯ひっかければきっと友になれる。
友になれるが、
やっぱり苦しい立場にある人が、私は可愛そうに思う。
どうにか救いたいという気持ちにかられる。
自分も悲惨な状況に追い込まれたことがあるが、
そうした人々を思うたびに、
「もしも自分だったら?」と真剣に考える。
そうであるならば、 友を人生の財産とし、
義理や人情を重んじながらも、
天下国家に対する大義こそ大切にするべきであり、
世を良くしようという志を持って生きるべきではないか?
と、私はそんなことをいつも考えている。
そして天下国家のことを真剣に考え、
少しでも世を良くしたいと想って、
本気で努力した時、
私の力がいたらないために、
自然と友に 対しては蔑ろになってしまう。
これまで友の誕生日、
あるいは何かの友の祝い事、
もしくは何らか友達同士の行事に行けないことなど、
実は山ほどあった。
すると友から
「冷たい男だ、アイツは変わった」
と想われてしまうことも少なくない。
しかし冷たい氷が時に、
熱く感じることがあるように、
私は熱く、熱く、燃え滾っているために、
それを「冷たい」と錯覚しているに過ぎない。
熱い者など、世にたくさんいることだろう。
だが欲望の熱さ、己のことだけの熱さは、
実は本当の熱さじゃない。
それは冷たい氷を、「熱い」と錯覚しているだけだ。
本当の熱さというのは、
人に対する優しさであり、
人に対する思いやりであり、
人に対する慈しみに他ならない。
今日からまた、もっと、もっと熱く生きよう。