今日の広島は秋の快晴![]()
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あんまり気持ちいいので、午前中に太陽の下、近所をゆっくり散歩![]()
太陽のパワーはやっぱり凄くて、連日の雨で日照時間が減り、エネルギーが低下気味だった体も元気を充電![]()
紫外線の浴び過ぎにも注意が必要だけど、生命って絶対的にやはり太陽なくして生きれないと、当たり前のことだけど頷いてる自分が。
道を歩いてるとバッタが結構いて、僕が近くを通ると一生懸命避難場所へ飛んでゆく。
だけど、バッタは飛ぶのは苦手みたい。
歩道の脇のガードのパイプにしょっちゅう激突![]()
大きなバッタが迫力のダイブ![]()
不器用な飛行の上、あんまり必死に逃げるから、微妙に労りの気持ちが芽生えはじめてきて、バッタも大変そうだなと観察![]()
一番不敏さへと誘う飛行は、まっ平らな座り心地の良さそうなアスファルトから、絶対に狙って向かったとは思えない、避難先の溝の中へ突っ込んでいくパターン![]()
何か痛々しい![]()
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だけど、あんまり器用に目的地へ飛ぶバッタも想像してみると変かも。
繁殖の盛んさから、飛行能力は不器用くらいで良しと生物進化を留めたのでしょうか![]()
バッタって顔が結構怖くて
、あの顔で凄い正確かつ長距離飛行して、しかも集団で飛ばれると、その姿は少し憂鬱かも![]()
バッタの観察報告終わり。
それで家に戻って、3.11以降頭の片隅にずっとある、東日本の瓦礫を全国へ運び処理しようという政府の方針について考えていました。
全国の各都道府県への政府からの通達の書類には、瓦礫受け入れについて用意された選択肢は三つだそうですね。
そして、瓦礫受け入れ拒否という選択はないとのこと。
相手は闘えない放射能だから、どうしたものかと考えてしまう。
世の中的には、あまり放射能って騒いでると嫌悪される感じだし、益々どうしたものかと。
政府は均一的に国民を被ばくさせることで、今後の賠償問題の際、このエリアだから放射能の影響である可能性が高いという風に、確かなデータに基づいて裁判へ持ち込まれることを事前に回避ってことだと個人的にそう思ってる。
僕は、広島生まれの広島育ちだし、放射能にはやっぱり敏感。
小学生の頃は、毎年八月六日は平和学習として登校して、体育館で全校集会が開かれ、皆で映画を観たり、教室で話し合いや映画の感想文を書いたりと、核への教育は活発でした。
だから、今後の被ばくや汚染拡大がとても気になります。
そして、国民の無関心さの中で、国に都合良く政策が進められていくことが一番気掛かりなこと。
個人の生き方なら、他人が口を挟むべきことではないけれど、今回は、後々の大和民族全体にまで明らかに悪影響を与え、皆の運命を滅茶苦茶にして狂わせてしまう問題なので、無力だとしても、どうしても口を閉ざしてじっとしていられない気持ちになります。
本当に楽しくない話題だけど、今ちゃんと見つめなきゃって思うんです。
皆、自分の人生の中で守りたいものも違うから、きっとうるさいだけに聞こえる人もいると思う。
だけど、一つだけ言えることがあるとするならば、誰にも他人の健康や命、また未来の子供達の生きていく、この国の大地を汚す権利などないのだということ。
経済的なことを理由に、政府や企業は巧みなマインドコントロールを国民に仕掛け、その権利の意味をすり替え、この世で一番尊い筈の命を守ろうとする行為を否定し、彼らの本当の目的の意味を眩ませようとしますが、絶対に引っ掛かってはならないと僕は思います。
それで、そんなことを考えながら、ふと思った少年の頃の光景が。
それは、どんな光景かというと、僕は少年野球をやっていたのですが、練習場になっていた小学校の校門の目の前に空き地があって、そこに近所の駄菓子屋で練習前に買って食べた菓子のゴミを、野球少年達の多くは皆平気で捨ててたんです。
僕もはじめはそんなに気にしていないようなガキだったんだけど、いつしか段々変ってきて、自然とそういうのは嫌だなと感じ、それ以後ゴミを平気で捨てることはなくなりました。
僕の家庭は、そういう道徳的教育はどっちかというとそっちのけで、僕は当時聴きはじめた音楽に道徳を学んでいきました。
大人はよく、音楽ばかり聴いてないでという台詞を口にして、人生について子供達に説教をしていたような時代の話ですが、僕にとっては音楽はとても優しくて温かく、そして何よりもだんとつに美しかったですね。
だから、今の日本社会に於いては、美への感性を取り戻すことが一番大切なことに思えます。
きっとそうすれば、小さな命を大切に思えたり、また自分の命も大切に出来るんじゃないかと。
競争社会の中で皆、心がぐちゃぐちゃに荒れ果て尖っているから、結局満たされない欲求は行き場をなくし、金や物に異様に執着しはじめるというのが、僕の考えです。
そして、精神的なものに頑なに価値を持たせたがらなくなるのだと思う。
それは、物質信仰とは真逆の正義として、悪(都合の悪い物)にすらなるから。
体裁さえ繕えば何でもありの結果主義は、そういう流れで生まれるのだと思う。
それを子供達の心に叩き込み、ひたすらに他人と競わせてきたのが戦後の学歴社会の教育でしょう。
この考えが、人間の心をとことん破壊し腐らせ駄目にしてきたって思う。
人間としての成熟の度合いや力が問われる社会ではなくなっていき、中身がなくとても表面的で適当であってもいいって風潮に染まっていったってことだと思う。
だから僕は、本当に温かい感動に一つでも多く出会えるような社会に変えていく働きかけを、いつまでも諦めずに続けていく勇気を持ちたいと思う。
とても重たい話だけど、ここまで読んでくれてどうもありがとうございます。
今日の僕は朝から作曲。
昨日の続きで、散歩前に九曲。
喉が痛いので、そろそろ休ませなきゃ。
今日は瓦礫問題のことを随分頑張って書いてみた。
NHKの深夜番組の生さだで、さだまさしさんも意見には個人差がありますってギャグにしてるけど、皆の意見が様々な価値観の上に存在していることを踏まえて、互いにちゃんと話を聞く姿勢を持って、優しく愛のある社会にしていきたいな。
じゃあ、頑張ったのでもう寝ます![]()
Bye Bye![]()
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