2024.5.3(金)
21
「徳之山八徳橋」の名は、ダム建設のために八徳の心で故郷を提供してくれた徳山八集落の人々の大恩に対し、感謝の気持ちを込めて名付けられています。
徳山村は二万二千年以前の旧石器時代から始まる長い歴史を持つ村でした。村は、本郷・下開田・上開田・山手・櫨原・塚・戸入・門入の八集落で構成されていましたが、徳山ダム建設のため昭和六二年三月に閉村し全戸が離村されました。
洪水災害に苦しむ揖斐川下流域の万民のため故郷を提供してくれた徳山村の大恩に対し感謝の心を忘れてはなりません。
橋の下の湖底には、大昔の地震で対岸の洞山から抜け出した「鬼岩」と呼ばれる鬼の姿をした大岩がデンと座ってます。この鬼岩は「徳之山八徳物語」に登場する地割る鬼の化身なのでしょう。
22
「ナギ太郎鬼岩橋」の名は、「鬼岩」の地名に因んで名付けられています。
その昔、この橋の対岸の山が崩れた時、揖斐川に大きな岩が転がり落ち、その岩が鬼の顔に似ていたことから、鬼岩と名付けられました。
山の木を伐採して山を荒らすと鬼のナギ太郎が暴れると伝えられ、橋が架かる「洞戸中洞」の岩壁もナギ太郎が暴れた跡と言い伝えられています。
23
「簗瀬立戸橋」の名は、「ヤナゼ」の地名に因んで名付けられています。
この橋の下には、まるで戸が立ったように見えたことより「簗瀬タッド」の名前が付いた滝がありました。
滝の下あたりには簗を仕掛ける良い場所があった事から、この地は「ヤナゼ」と言われるようになりました。この簗でアユがたくさん捕れたそうです。
24
「乙女栃山橋」の名は、漆原乙女開祖伝説に因んで名付けられています。
この橋の下、揖斐川の辺に漆原村開祖の乙女が大切にした栃の木山があり、人々は、「オトメトチヤマ」と呼んでいました。栃の実が大事な食料であった時代、栃の木一本毎に持ち主が決められていたのです。
25
「扇間歩危橋」の名は、「扇間歩危」の地名に因んで名付けられています。
橋が架かる地点は眼下に揖斐川がせまり大変危険な所で、扇間家の人が転落したため「扇間歩危」と呼ばれてきました。
徳之山では、通行に危険な場所を歩危・猫廻し・犬返りなどと言います。二条歩危・山伏歩危など人名等が付いた所は、その人が誤って転落したことを伝えています。
26
「漆原樅の木橋」の名は、「樅の木」の地名に因んで名付けられています。
この辺りは樅の木が多く、「樅の木」にはひときわ大きな樅の木があったということです。
徳之山は昔から雪崩や土砂崩れが多く、斜面の家が流されたこともありました。この雪崩や土砂崩れは、鬼のアワ姫やナギ太郎が暴れて起こしたともいわれています。
樅の木は、雪崩や土砂崩れから村を守りました。漆原の人々がいつも平和に暮せたのは、樅の木の山を大切にしたからだと伝えられています。
27
「漆原宮橋」の名は、漆原集落の地名に因んで名付けられています。
この橋の下には漆原集落がありました。その漆原の中心には杉や檜の老木でおおわれた鎮守の森・春日神社があり、「宮」と呼ばれていました。
「宮」の近くの「的場」では弓術の稽古が、また「高札」では徳山代官が高札で村人に告示した等々、漆原村の人々のさまざまな歴史が刻まれています。
28
「麻蒔ブナ橋」の名は、「麻蒔ブナ」の地名に因んで名付けられています。
この橋が架かるチシャタニ上流には、「麻蒔ブナ」と呼ばれている所があります。この谷は、木工製品の材料に適したチシャの原木が多かったことよりチシャタニと呼ばれています。
この谷の上流には大きなブナが群生し、春の到来とともに芽吹くと、村の人々は山畑(アラシ)に「麻の種」を蒔いたということです。
長い冬を耐えしのんだ山里の人々は、大切に守り育てた樹木が教えてくれる季節の変化によって春の訪れを喜び、これを農事暦にしてきたのです。
29
「乙女隧道」の名は、この地を拓いた先祖がこの地にそそいだ血と汗に思いをはせて欲しいとの思いで名付けられています。
下流からこの隧道を抜けると旧漆原村(下開田)の集落に入ります。
漆原村の開祖は金の鎌で漆の原野を切り開いた17才の乙女であったと伝えられています。
30
「鏡山恵水橋」の名は、「鏡山」の恵みに因んで名付けられています。
「鏡山」に降り積もった雪は、鏡のように陽の光を反射して里を明るく照らし、やがて、橋が架かる「上の谷」に豊富な水となって湧き出します。この水が濃尾平野を潤し恵みをもたらす、という意味で名付けられています。