2024.5.3(金)


自分用の備忘録です


国道417号

橋&トンネル名





09 本郷カンタク隧道ほんごうかんたくずいどう



「本郷カンタク隧道」の名は、本郷に伝わる民話「増徳寺のかんたく和尚」にちなみ名付けられました。


この隧道が抜ける「字クツ尾・字フッコ・字村平・字ホキの下」地内には揖斐川にそって本郷集落がありました。

本郷のほぼ全戸と増徳寺・徳山小学校・白山神社・徳山城址・城平杉などがあります。


民話の「カンタク和尚」は、とてもゆったりとした高徳な住職でした。あまりの高徳に境内の地蔵尊が和尚の代わりに托鉢して回ったと伝えられています。 



10 クツ尾ゴンニョ橋くぞごんにょはし
「クツ尾ゴンニョ橋」の名は、本郷から能郷白山に参詣する「ゴンニョ」と呼ばれる山道にちなみ名付けました。


徳山村の人たちはきつい山道「ゴンニョ」を登り、能郷白山神社にお参りするのが習慣でした。


ゴンニョは権現のことで、徳山村では能郷白山のことを権現山と呼んでいました。 



11 つだウズキ橋
「つだウズキ橋」の名は、この橋の架かる近くの呼称地名「キンタマウズキ」と呼ばれる断崖と、大垣藩に納めた年貢のつだをこの断崖から川に落とし、流送した故事にちなみ名付けられました。


断崖の高さは百メートル程あり、下を覗くとゾクゾクと身震いする材木のオトシ場でした。


またつだは、段木とも殿木とも呼ばれ、煮炊きに使う薪のことです。


徳山村は、米の代わりにつだを年貢として収めました。揖斐川に流しつだ狩り(川狩り)の人たちの手で大垣まで運ばれました。 



12 クツ尾ギソ見橋くぞぎそみはし
「クツ尾ギソ見橋」の名は、橋の架かる字「クツ尾」とこの橋から見上げる対岸の「上谷山」にちなみ名付けられした。


この山は本郷の人々が見る初冠雪の山です。

本郷の人々は初冠雪を正月の着衣初めに例えてギソ山と呼びました。新しい衣裳は、お正月に袖を通すのが習慣で、着衣初めと言いました。


ギソ山を上谷山と表記されたのは、下開田を流れる上ノ谷の頭にあたる山なので「上谷山」と表記された。 



13 クツ尾みかぐら橋くぞみかぐらはし 
「クツ尾みかぐら橋」の名は、橋の架かる字地名「クツ尾」と焼畑(田畑)の総称「アラシ」で栽培されるヒエ・アワ・キビの収穫感謝祭「みかぐら」と呼ばれる習慣にちなみ名付けられました。


徳山村の焼畑耕作は、4年間耕作をして二次林の再生放置(荒らしておく)を15年から50年します。再生した二次林をムツシと呼びました。

このことから山畑を「アラシ」あるいは「ムツシ」と呼びました。


旧暦の11月3日は「みかぐら」の日です。山畑で採れたお米「みごく米と呼ぶ」と小豆で小豆ご飯を炊き、神様に供え五穀豊穣の感謝祭を習慣としていました。 



14 クツ尾杉の木橋くぞすぎのきはし
「クツ尾杉の木橋」の名は、橋の架かる字地名「クツ尾(クゾ)」と土砂災害を防ぐために植林された杉の木にちなみ名付けられました。


徳山の人々は樹木を伐採した後には必ず植林をしました。この地は杉の植林地帯です。植林は土砂崩壊を防ぐとともに子孫に山の恵みを相続する大切な習慣でした。


地名「クツ尾」はクゾと呼ばれていました。

植物の葛をクゾと呼び、その根は葛粉にして食べる他に、根を干して漢方薬の解熱剤に、その蔓は行李(物をしまう箱)を編み、また繊維にして布を織りました。 



15 本郷神楽橋ほんごうかぐらはし 
「本郷神楽橋」の名は、本郷白山神社と能郷白山そして本郷白山神社で行われた恒例の元服式の神楽舞にちなみ名付けられました。


能郷白山は、徳山の人々から権現山と呼ばれ、山頂には白山神社が祀られています。里宮の本郷白山神社では、元服式に能面を付けた神楽舞が奉納されていました。


徳山村の能面は国の重要民族有形文化財に登録され、大切に民族資料館に保管されています。 



16 岳洞山桜隧道だけほらやまさくらずいどう





「岳洞山桜隧道」の名は、山名「岳洞山」と徳山の山桜にちなみ名付けられました。


岳洞山は、字クツ尾・字洞山・字白谷の頂点にそびえる山です。


大昔のこと、根尾村から都を目指した継体天皇は馬坂峠から白谷へ入り、山桜をめでながらこの岳洞山を越えて西谷に入り、門入のホハレ峠を越えられたと想像されます。


山桜は徳山の名物で、徳之山の山花唄には、「徳山名物数々あれどめでて楽しい山の花 晩春の徳山花盛り桜にシャクナゲ、山つつじ…、」と唄われています。


また、徳之山の桜唄には

「桜の名所数々あれど 揖斐川のぼって 秘境の地徳山湖畔に桜咲く なかでも自慢は山桜 一つ下開田、しつわら桜 二つ上開田の桜橋 三つ戸入のおすぎの桜 四つ門入入桜 五つ本郷のカンバの桜 六つ山手の鬼生桜 七つ櫨原四郎の桜 八つは塚のかんむり桜 ああめでたいな めでたいな」と唄われています。



17 五平能舞橋ごへいのうまいはし
「五平能舞橋」の名は、徳山城の城主徳山五平が橋の架かる白谷を渡り、うま坂峠を越えて根尾村に通い能芸能を楽しんだことにちなみ名付けられました。


徳山村では殿様が厳しい年貢を取り立て、根尾村の能舞に注ぎ込んでいたので、殿様の評判はあまり良くありませんでした。


白谷は根尾村との交流の玄関口でした。領主、徳山五平ばかりでなく徳山村の村人や、大古には継体天皇も白谷を渡られました。


根尾村能芸能は、中世の面影を伝えるもので能の源流を残す能として国の重要有形民族文化財に指定されています。今も根尾村白山神社の祭礼として奉納されています。 



18 しで原憂い橋しではらうれいばし
「しで原憂い橋」の名は、橋の架かる地名「しで原」と徳山民謡に唄われる馬坂峠を越えて根尾村と交流する山道にちなみ名付けられました。


徳山民謡

「憂いは馬坂、辛いは冠、法の遠いは田代谷」と大変辛い峠を越えての文化物流の生活をうたっています。


地名「しで原」はこの地を開拓した祖先が、垂れ下がった野原を「垂の原」と呼んだのが地名の語源と想像されます。この「しで原」にも多くの山畑がありました。



19 クツ尾山之神橋くぞやまのかみはし
「クツ尾山之神橋」の名は、橋の架ける字地名「クツ尾」と徳山村で行われた山神様への感謝祭の習慣にちなみ名付けられました。


山神様への感謝祭「山の溝」は、春と秋に山神様に牡丹餅を供え、山の恵みに感謝するのが習慣でした。


地名「佐元」のサは、急勾配の谷を表現した早を意味する言葉です。モトは元・本の意です。矢のように早く流れる幾つもの沢が合わさるところを「サモト」と表現したのです。 



20 洞山鬼岩隧道ほらやまおにゅわずいどう
「洞山鬼岩隧道」の名は、トンネルが抜ける「洞山」と洞山に伝わる鬼岩伝説にちなみ名付けられています。


洞山は大昔の大地震で山が大崩壊し鬼岩が飛び出した跡に洞が出来たので、洞山と呼ばれるようになったそうです。


鬼岩は、揖斐川に飛び込み徳山の人々から「鬼岩おにゅわ」と呼ばれ、魚採りや揖斐川のつだ狩りの目印とされていました。この洞山隧道が旧本郷の入り口です。