昨日は朝一番で病院へ行き、母の主治医は不在でしたが、

他の内科の先生に痛み止めを処方してもらって帰ってきました。

病院にいる間も施設から母からと電話が鳴って慌ただしかった訳です。

 

母は何年か前に「左変形性股関節症」の診断を受けていて、

手術が出来る年齢ではないため、痛み止めや湿布等で調整していくしかない状態でした。

まず母の「不穏」の原因は、

ここの所痛みが強くなったことと痛みの原因を忘れてしまっていたことでした。

一応施設にもその旨を話して痛み止めを届け、

母にももう一度よく話して落ち着いてもらいました。

母は朝話したことを昼にはもう忘れてしまっている状態なので、

その都度話すしかない事が繰り返される訳です。

 

前にも書いたことがありますが、

同じ話を何度も何度もしなきゃならない状態は、やはり忍耐が必要です。

仕事だからできてたってことはあると想います。

 

そんな午前中を過ごした後に、ふとこんな想いが入ってきました。

私の中では、例えば痛みや痒みそして病気も身の内にある想いがそういう形となって

現れる浄化作用として捉えています。

だから「自然の摂理」として、

歳と共に痛みや病気が増えるのは、浄化して元の世界に還れるようになってるんだと

理解している訳です。

それを踏まえて入ってきたものは、

母がこんなに長生きして痛みを味わっていることが、

実は私や娘そして孫達と血の繋がるものを楽にしてくれていることなんだと。

ふと母が長生きしてくれている「意味」を知ったような感覚になりました。

 

血の繋がりって不思議で、それが何か分からなくとも、

先祖的に抱えているものってあるかも知れません。

私の叔父(母の兄)はもうすでに亡くなっていますが、こんなことを言っていました。

「自分が死ぬ時に全ての所謂「業」というものを持っていく」と。

それは即ち二人の息子そして孫やひ孫にそれを引き継がせない「意味」でもありました。

こんなことを想っていた叔父が「凄いなあ」と感じたことを覚えています。

 

ふっと入ってきた考えで、物事や人に対する捉え方が「愛」に傾いていくこと。

気持ちが楽になり心が暖かくなること、

それはもう「高次の存在からの癒やしのエネルギー」としか想えない訳です。

そのことに「心からありがとう」と言いました。

お陰様で、結局昨日も素敵な1日になりました !