何となく感じていること。

前に比べて、ブログを書くことに対する「意欲」は薄れつつあること。

実は何気に感じていたのに、

それに「いやそんなことはない」と抗っていたようにも感じます。

書くことにあまり「苦がない」としても、「才能」がある訳ではありません。

ほんの少し、読んで下さる方がいたとしても、

まず私の身近な家族は誰も読みません。

ただの「自己満足」であったかも知れません。

「自分さえ良ければいいんか」と言えば、そうではなかったです。

自分自身の体験が「誰かの役に立てば」という想いもありました。

でもよくよく考えてみれば、私のような「しんどい体験」って、

実は誰も経験なくて、自分だけだったのかとも感じます。

 

小さい頃から、私の中にあったことは、

誰であれ人に対する時は、

ちゃんと相手の目を見て誠実に対応すること、

それが「当たり前」という想いがありました。

なんでそうなったのか自分でも分かりませんが、

それが相手に対する「尊重」だと想っていて、

「逃げる」ことは、ずっと「ずるい」と感じていました。

今も尚、そういう考えは薄まりつつありながらも、まだあります。

「面と向かうこと」が私には「相手への尊重」と想っていたものですから、

そうじゃない場合は、ひどく傷付いてきました。

そして母を始めとして、結婚してからも家族も

ちゃんと向き合ってくれた記憶がありません。

家族の中では、どちらかと言えば「孤立」していて、

その割にはずっと家族のために一人動き続けてきた訳です。

私がずっと間違っていたのか、性格に問題があったのかと、

長い間「自分を知る」ことを続けてきました。

向き合ってくれない人は、

「ああそんなんですね」と完全に諦めれば良かったものの、

諦めきれなかった自分がいた訳です。

 

でも今、もうそんなことに拘ることもないなあと。

みんな自分の望むように好きに生きれば良い訳です。

そして私自身が人に「ああだこうだ」と想う必要もないと。

むしろ人迷惑だったかもです。

私は「私の望む人生を生きる」と決めようと想います。

そこに「愛」が無くなった訳ではなく、

常に「愛」はベースにあります。

一つ自分で自分を褒めるとすれば、私にとってですが、

どんなに悲しくて苦しい体験があったとしても、

相手に対する「愛」を失うことはなかったこと、それだけ。

それを今神様に褒めて貰えたことなら、それで充分です。

その時その時でやれることをやってきたなら、

生きてきた甲斐はありました。

これまでの修行はもう終わりにします。

 

無限に続く「真実への道」はずっとずっと続くなら、

寿命がある限り、それに向かって前に進むだけ。

きっとそれが、私の「魂の望み」