コメントをいただいた方のブログを拝見して、思い出したことを少し
そのかたはご主人が成人T細胞白血病で闘病されているそうなんですが、その病について気になったので調べているうちに父のことを思い出しました
父は私が大学生のとき急逝したのですが、死亡届を出したときの死因は「多臓器不全」。
当時卒論や就活で忙しくしていた私はぼんやりしか聞いていなかったのですが、その時うっすら覚えているワードが「T細胞」と「母乳感染」でした
母乳により感染し免疫力が低下したりすると稀に発症する病気なんだと、当時ネットも発達していない中自分なりに調べて解釈したのを思い出しました。
ATLとか……そんな病気
それで母や父の姉弟も検査して感染していなかったとか言っていました
戦後すぐ生まれた父は祖母が母乳の出が悪かったこともあり、「もらい乳」をしていたそうで…
生まれてすぐにドラマの伏線が
設計士と居合道の先生をしていた父は老後の人生設計もバッチリしていたようで、自宅に道場を作って……なんて思いながらバリバリ働いていたようです。
一度大学2年の頃に母が「お父さん、体の調子が悪いみたい」と言っていたのですが、特に詳しく話をするわけでもなく、母も本人から詳しくは聞いていなかったよう
母は完璧主義(のように見えていた)な父を信頼しきっていたので、何も言わない=大丈夫と思っていたみたい
そして大学4年の秋、アルバイト中に叔母からの電話で父が倒れた事を知り、父は2日間集中治療室で皆が顔を見にくるまで闘って亡くなったのでした
一報を受けた私が実家に戻ったのは翌日の昼。そのまま付き添いを交代して、夜間2日は私が付き添ったのを覚えています。
子供の頃から親戚の中ではひょうきんものとして思われていた私は、なんとか場を明るくしようと冗談を言ったりして…
憔悴しきっている母を元気づける為か、はたまた急に訪れた危機に感情がおかしくなっていたのか、皆一緒に笑ってくれていました。
情緒がおかしくなっていたんだと
そして父の最期の言葉……
「うるさい」
私に向けた言葉でした
本当にこの世で最期の言葉。
父よ、本当に申し訳ない
私って超親不孝者。
なんて事を思い出したのでした