ファンブログ❤️”源氏物語 第三部 宇治十帖 第四十六帖椎本(しいがもと)” | みそらの日日是好日 ‪‪ᵕ̈* ニチニチコレコウジツᵕ̈*

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2020年春...
1998年生まれの長男は
東京で社会人に。
2000年生まれの長女は
うどん県で女子大生。
これから わたし時間を楽しむぞ!!(b`>▽<´)-bイエーイ☆゛







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壱や【源氏物語】
宇治十帖

第四十六帖
椎本



二月二十日過ぎ、匂宮は薫から聞かされた宇治の姫君に関心を抱き、初瀬詣での帰り、宇治に中宿りする。

そこは夕霧の宇治の別荘で、川向うには八の宮の山荘がある。

匂宮のお供や京から迎えに来た人々で賑やかな管弦の遊びをする。

その音楽の音色が川向うの八の宮のところにも聞こえてきて、八の宮は昔の華やかな日々を追想する。

翌朝八の宮が薫に手紙を贈ると、その返事を匂宮が、したためた。
壱やブログより画像お借りしました
その手紙を薫が持って八の宮を訪う。

それ以来、匂宮の手紙が度々姫君あてに届くようになる。

八の宮はその返事を中の君にさせた。

その年は八の宮の厄年に当たっていて、宮は死期を予感している。

自分の亡き後の姫君たちのことが気がかりで、薫が七月、宇治を訪れると、姫君たちの行く末を改めて托す。

この時薫は中納言になっていた。

秋も深まる頃、八の宮は山寺に参籠する。

出発に際し、姫君たちに見苦しい結婚はするな、宇治を離れてはならぬと遺言する。
壱やブログより画像お借りしました

その参籠の満願の頃、八の宮は山寺で病没した。

八月二十日の頃であった。

阿闍梨は生前お約束してあった通りに、八の宮の葬儀も追善供養も御奉仕申し上げた。

匂宮からも度々弔問が寄せられる。

年末薫は雪の降り積んだ宇治を訪ね、淋しく喪にこもっている姫君に匂宮を弁護し、大君に自分の意中を訴える。

大君は取りあわないが、その対応に薫はますます大君に心惹かれる。

年が改まり、夕霧は、娘の六の君と匂宮の結婚を望んでいたが、匂宮にはその気がなく、冷淡な宇治の中の君にますます惹かれ、薫にその仲介をせがんでいる。

その年三条の宮が焼失して女三の尼宮も六条の院に移り、薫は何かと多忙で宇治への訪れが遠のいた。

ようやく夏、宇治を訪れた薫は、喪服姿の美しい姉妹を覗き見て、大君に一層思いをつのらせた。

亡き八の宮を偲んで詠じた、

立ち寄らむ蔭とたのみし椎が本
むなしき床になりにけるかな

の歌によって題名がついた。

壱やブログより文章画像をお借りしました

薫二十三歳の二月から二十四歳の夏まで。

源氏物語 巻八
瀬戸内寂聴 訳 引用






落魄らくはくの皇子八の宮

宇治十帖の冒頭、橋姫巻の初めに紹介される八の宮の人生は、光源氏の権勢や英華の裏側でさびしく生きた皇子の物語である。

八の宮は光源氏の弟であるが、冷泉院より少なくとも二、三歳以上の年上である。

桐壺院の没後、光源氏を須磨退去に追いやった弘徽殿大后は、同時に東宮(のちの冷泉帝)の廃太子をも企てた。

その時に八の宮は東宮候補にかつがれた。

しかし、それが八の宮の不運の始まりであった。

廃太子は失敗し、数年後は朱雀帝が譲位して冷泉帝が即位し、明石から召喚された光源氏が冷泉帝の後見として政権を確立すると、それ以後八の宮は世間から見捨てられたような人生を送ることになった。

八の宮は、自分の人生をどのように考えていたのだろうか。

彼の口から直接語られることはないが、仏道に心を寄せるようになるまでの間は、利用するだけ利用しながら利用価値がなくなると棄てて顧みない宮廷社会に対する絶望に身もだえした時があったようである。

「自分の身に不幸があり、世の中を恨めしいものと思い知るきっかけがあって、はじめて道心も起こるものです」(橋姫)と、阿闍梨に語っていたが、彼にはそうした苦しい体験があったのである。

源氏物語の世界
日向 一雅 著 引用


親王という生き方

光源氏は、天皇の皇子でありながら「源」という姓を与えられ、臣下となった。

「親王」という、たとえ一縷でも即位の可能性がある身分を彼は手にすることができなかったのだ。

だが、終わってみればどうだろう。

他の親王位を与えられた兄弟よりも、光源氏の方がずっと華やかな人生を送ったとはいえないか。

例えば蛍兵部卿宮は、いかにも優雅だがぱっとせず、ただ微温的な生涯を送ったように思える。

また宇治の八の宮は、旧右大臣派に担がれて冷泉の代わりに東宮の座に就くという陰謀が起こった頃は、多少盛り上がったのだろうが、それが失敗に終わってからの人生は、まさに悲劇的としか言えない。

実は、蛍宮と八の宮の人生は、平安時代の親王たちの人生の、二つの典型である。

親王がいわば皇位の「補欠」であったためだ。

彼らは、慣例上、大臣など公卿にはならない。

彼らのためには兵部卿や常陸太守など、親王専用の職が用意されていて、これらの職に就くと「兵部卿宮」「常陸宮」などと呼ばれた。

だが実際に兵を統率することも、常陸に赴くこともない。

名ばかりの閑職である。

つまり彼らには、政治家として政界の中枢に身を置くという生き方も、実務に精励して働くという生き方もなかった。

彼らはあくまでも、皇統が途絶えた時のための「控え」であった。

長い「控え」の待ち時間をどう生きるか。

多くの親王たちは、学問や恋の雅に身を委ねながらひたすら時間を過ごした。

そして一部の親王たちは、政治抗争に巻き込まれて悲劇に泣いたのだ。
平安人のココロで「源氏物語」を読む
山本 淳子著 引用



山寺に籠って呆気なく亡くなってしまった八の宮。
親王だった八の宮の人生にスポットを当ててみました。。。








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2020年7月21日投稿