撫子の写真を撮れたら良かったのですが
我が家の庭の撫子は種化してました😭
↖️こちらは、借り物m(*_ _)m
我が家の狭い庭ですが
他のお花はまだまだ咲いています
綺麗です。
iPhone11Proだったら
どれだけ綺麗に撮れるんだろ。
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紫式部に恋をして
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二十六帖常夏
常夏は撫子なでしこの別名である。
撫子に愛児を擬している。
撫子のとこなつかしき色を見ば
もとの垣根を人や尋ねむ
という源氏の歌による題名。
源氏三十六歳の夏六月。
猛暑の折、源氏は十五歳になる息子の夕霧や内大臣の次男三男など若者たちと、六条院の釣殿で涼む。(下記参照)
やがて話題が、内大臣の落胤らくいん・おとしだねである娘が見つかったことに及び、「昔から女性関係の華やかな人だったからね」と源氏は冷笑する。
それは彼が 内大臣が娘の雲居雁と夕霧の仲を引き裂いたことを、腹に据えかねているせいだった。
とはいえ、思いは玉鬘という内大臣のもう一人の落胤に及ばされるを得ず、内大臣と彼女をひきあわせようかどうか、源氏の心は揺れる。
源氏は玉鬘のもとを訪ねる。
雑談に、内大臣が和琴の名手であること、かつて玉鬘について口にしていたことを語ると 玉鬘は実父恋しさに涙をこぼす。
その可憐さに源氏はますます心を奪われ、もはや苦しいほどである。
自分と結ばれても玉鬘にとって幸福ではあるまい、いっそ蛍兵部卿宮か髭黒大将にあたえようか。
最近では源氏に慣れて嫌がりもしない玉鬘に、彼は悶々とするばかりだった。
いっぽう内大臣は、例の落胤である近江の君に手を焼いていた。彼女は、悪気派ないが、双六(下記参照)に興じ下品な早口でまくしたてる、とんでもない娘だったのだ。教育がてら、異母姉妹である弘徽殿女御への宮仕えを勧めると、近江の君は 「便器掃除でも良いから仕えたい」と言い出し、さっそく滅茶苦茶な和歌を作って女御におくりつける始末である。困ったご落胤に周囲はあきれ、笑い者にするのだった。
それにしても 末摘花も近江の君も作者の筆が辛辣になればなるほど、あわれを感じ、笑いがふっと凍りつくような気分にもなる。
それはこの人物たちに、全く悪意がなく、善良だからであろう。
少なくとも 末摘花と近江の君は、一途さに於て、非常識なほど真面目で真剣だという点に於て共通している。しかしそれは観点を変えれば、人間の美点でもあるのだ。
平安人の心で「源氏物語」を読む
山本淳子著
源氏物語 巻五
瀬戸内寂聴 訳
2冊を引用させてもらいました。
源氏物語と京都
六條院へでかよう 監修後藤邦治 編集風俗博物館より
紫式部の
ちょっと裏話
紫式部の娘 ・賢子けんしも、女房仕えの中で多くの恋を体験し、藤原兼隆ふじわらかねたかとの間には女の子が生まれた。賢子が二十六歳の頃である。兼隆は道長の兄で一時は関白にもなった道兼の子で、賢子と関係のあった当時は既に四十一歳の中納言だったから、これは貴公子というより中年セレブとキャリアウーマンの婚外恋愛である。
しかも宮廷では周知の関係で、やがて時の東宮に皇子が生まれた時、「紫式部の娘がちょうど兼隆様の御子を産んだので」と賢子は乳母に抜擢された。
皇子はやがて即位して後冷泉天皇(1025~1068)となり、賢子は乳母を務めた功績で女性ながら三位の位を与えられたのだから、振り返ってみれば ご落胤を産んだことが賢子の人生を大きく飛躍させたことになる。
女房にとってセレブとの恋は自分の人生を賭けた華麗な勝負ともいえ、ご落胤を産むことは恥では無かった。
いっぽうセレブにとっても、妻の手前、多少気まずいことではあったものの、女房との雅な恋の結果であるご落胤は、ひた隠しにするような子でも無かった。
もちろん正妻との間の正式な子供たちとは扱いに大きな差があるものの、女房との恋の子はそれなりに子として認められたのである。
平安人の心で 「源氏物語」を読む
山本淳子著 引用
壱やブログ
常夏は
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蛍は
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今回も長くなりました。
ここまで 読んでいただきまして
本当にありがとうございます。
では、そろそろ 出勤しまーす。
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